人に「尽くす」ということ

「「尽くす」ことは素晴らしい」という言説への疑念

ここ数日、ある後輩と話をしていて感じることとは、
「尽くす」ことの難しさである。


これは、「尽くす」ことに日常的にかかわっている人なら
当たり前のように思うことであろう。
「尽くす」とは、対象は誰に対してでもよい。
日常的には、妻が夫に尽くすという
近代家族の「幸福な家庭」像に映し出されているし、
社員が会社に尽くす、お客様に尽くすことも、
人に「尽くす」ことの例である。
ただし、これらの「尽くす」行為が成り立ちうるのは、
そこの対象/被対象の関係に、行為への自覚が存在するからである。
妻が夫に尽くすのは、近代家族の役割関係があるからであり、
社員が会社に尽くす、お客様に尽くすというのも、
報酬や代金といった、金銭のやり取りがあるからである。


「尽くす」ことの困難さが表れるのは、
その、いわば対価が得られにくい関係性においてである。
それが、社会貢献活動であり、地域活動であり、ボランティア活動などである。
たとえば、地域活動なんかでも、
実家が商店会か何かに属しており、
世間体という利害関係が背後にあるなら、
この困難さは露呈しない。
問題は、そういう利害関係が存在しないときである。


人はなぜ人に「尽くす」のか。
たとえば、社会貢献活動などを教育プログラムのうちに含ませる際、
「奉仕は義務なのか否か」という論争が起こった。
一部の意見には、社会に生きる上で当たり前の行為であるという声、
一部の意見には、他者の考え、社会観への理解力を養う行為であるという声、
他にも肯定側の意見にはさまざまに存在したが、
とりわけ、奉仕をさも当然の行為のように評すこれらの意見に、
疑念は起きないのか。
それは、対価が生じないのに、
人は「尽くす」ことに積極的に歩みうるのかということである。

ジョゼと虎と魚たち

[rakuten:book:11694808:detail]

ジョゼと虎と魚たち」という2003年公開の映画がある。
原作は、田辺聖子の同名小説で、こちらは84年の作品であり、
映画では原作から設定を大きく変更されているが、
小説を読んだわけではないので、映画についてのみ述べることとする。


この作品は、
大学生の恒夫(妻夫木聡)と、足の不自由なジョゼ(池脇千鶴)の間の
ラブストーリーである。
ある時ジョゼに出会った恒夫は、ジョゼにひかれ
ジョゼの家に出入りするようになる。
その中、次第に恒夫はジョゼにできることをしてあげたいと思うようになり、
ジョゼに「尽くす」ようになる。


あるとき、事件は起こる。
ジョゼは乳母車にのって散歩をしていたが、
その乳母車が壊れてしまった。
その乳母車を直してあげた恒夫は、
試しに、散歩に出かけようかとジョゼに提案し、連れていく。
普段、世間体を気にして介護する祖母(新屋英子)は
人目の付かない時間に散歩に連れて行っていた。
祖母の許可もなくジョゼを昼に散歩に出かけて行った恒夫は
帰ってきたとき、祖母にきつくしかられてしまう。


また、事件は起こる。
恒夫は祖母に、ボロボロの家を福祉制度を使い改築するよう提案する。
祖母は、そんなうまい話があるわけがないと拒否するが、
恒夫は強引に手続きをし、改築することとなる。
もちろん、祖母にとっては悪い話ではなかった。
しかし、そこに、恒夫の彼女の香苗(上野樹里)がやってくる。
香苗は福祉の仕事に興味を持っていて、
恒夫とジョゼの関係にも関心を持っていた。
だが、恒夫に対して好意を持っていたジョゼは嫉妬し、
恒夫を追い返し、出入り禁止にする。


恒夫は、やりきれない思いでいっぱいだった。
しばらく、ジョゼと会うことができなかった。
が、あるとき、祖母が亡くなったことを聞くと、
いてもたってもいられず、ジョゼの元に駆け寄る。


以後、恒夫とジョゼは急速に距離を縮め、
一人ぼっちになったジョゼの家で、二人は同居することになる。


一方で、恒夫をジョゼにとられた香苗は、ジョゼに対し、
「あなたの武器がうらやましいわ。」と言い、
ジョゼに「ほんまにあんたもそう思うなら、
あんたも足切ってもうたらええやん。」と言い返されると、
香苗はすごすごと帰るしかなかった。


ここで、おもしろいのは、
恒夫とジョゼの関係と、香苗とジョゼの関係の変容である。
恒夫は、興味本位からジョゼと関係を結ぶようになり、
やがて、「世間」の象徴である祖母などとのやりとりから
葛藤を抱いていくものの、
ジョゼにとって自分がかけがえのない存在であることを自覚する。
つまり、自分が「尽くす」ことがなければ、
ジョゼは一人ぼっちになってしまう、と考えるようになる。
一方で、香苗は「尽くす」こととは「助けること」であると信じていたのが
ジョゼの存在によって、その信念が崩れていく。
「ご立派な人と違う」恒夫が「助けてもらう」べきジョゼにとって
かけがえのない存在になっていくことで、
ジョゼが「障害者のくせして私の彼氏を奪っていく」ことによって
逆に、その道で進もうとしていた自己像すら揺らいでしまう。


香苗は、その後、就活もやめてしまい、フリーターになる。
道端でその姿を恒夫に見られ、
「一番見られたくない人に見られてしもうたわ」と恥じるが、
恒夫は「そうでもないよ、けっこうかわいいよ」と言い、
香苗にとって、それが自分の生きざまを見直すこととなる。


一方で恒夫は、最終的にはジョゼと別れ、香苗とよりを戻す。
理由は、恒夫が「逃げた」からだ。
だが、ジョゼに「尽くす」ことが「助ける」という役割に固定化され
(弱きジョゼに対し)自分が強くなければならない、
という思いに縛られ、疲れてしまったからであろう。


それとは反対に、ジョゼは、恒夫との生活によって
はじめから何もない「深い深い海の底」からこの世に泳いでこれた。
しかし、それでも一人ぼっちの世界もよしとできるようになった。
恒夫がいなくても、一人で買い物に行けるようになったし、
一人で生活することもできる。


結局、大きなものを失ったのは、3人の中で恒夫だけだったのである。

「尽くす」ことは何のため?

ジョゼは、なぜ一人でも生きていけるようになったのか。
一方で、恒夫がなぜ「逃げた」のか。
そこに見出されるのは、
「尽くす」ことこそが、「尽くされる」側を作り、
「尽くす/尽くされる」構造を生み出していることである。


先ほど取り上げた後輩の話がそこで非常に興味深い。
彼女の提起するその構造は、「貧困」である。
「貧困」に「尽くす」活動を行っている中で、
彼女は自分たちこそが
そこに「貧困」というレッテルをはっているのではないかとする。
それは偽善というか、本当の貧困に対しては何もできないことに
自分が申し訳なくなったとする。
そして、そう自分が感じる中で、彼女は自信がなくなっていったという。


彼女の自信をなくす原因となったのは、
「ジョゼと〜」の香苗のように、
「尽くす」ことが大したことのないことであることに気づいたことによる。
自分たちは、「貧困」のために社会貢献をしていた。
しかし、その社会貢献が「助けてもらう」人にとって
「助ける」ことにはつながらなかったのである。


むしろ、「尽くす」ことの理想は、
そうした関係性に縛られることのない関係性にあるといえる。
つまり、尽くされる側にとって大した存在にならないほど、
理想であるということができる。


「尽くす」上では、「助ける」ことだけではなく、
逆に「助けてもらう」側面もある。
「ジョゼと〜」であれば、恒夫がジョゼに「尽くす」ことで、
ジョゼの生活上で「助ける」だけではなく、
愛情とは何かと言うことを気付いていく、ジョゼに気付かされるということで
恒夫はジョゼに「助けてもらう」のである。


「尽くす」ことは、それだけでなくドロドロした部分もある。
恒夫はジョゼに尽くすことで、
ジョゼの祖母との軋轢に巻き込まれていた。
もちろん、祖母にとっては、世間との戦いがあったのである。
祖母との戦い、ジョゼとの戦いは壮絶であり、
急に帰らされたこともあったし、
本を投げつけられたこともあった。
すると、人に「尽くす」というイメージに抱かれる
「善意」とか「共感」とか「やさしさ」「思いやり」とかいったものとは
まったくかけ離れたものなのである。


それでも、私たちが人に「尽くす」のはなぜかといえば、
それは「尽くす」という行為を続けたい欲求がどこかにあるからである。
たとえば、災害が起きたとき、救援物資を送ることがある。
もちろん、政府や赤十字などのオフィシャルなものはあるが、
それではなく、私的に送られる物資がある。
そこには、よくゴミ同然の衣服や食料が入っていることがあるという。
しかし、被災者の側は受け取るべきという立場、
そしてそれに対して感謝をしなければならないという期待があるので、
被災者はそこで自分たちの苦しみを表に出しづらくなる。
一方で、援助者側は援助物資を送ったことで
「もう大丈夫だ」という欺瞞の思いを抱く。
その結果、「尽くす」者と「尽くされる」者の間に
支配―服従関係が、暗にできあがってしまうのである。*1

「尽くす」ことは日常的な行為であり、自覚的な行為である

「尽くす/尽くされる」関係は、
具体的な活動をしていく上で、双方がお互いを理解することで、
初めて成り立つことができるのである。
そこでは、「尽くす」ことが華やかな行為でも何でもない。
ただの、何の変哲もない、人間関係そのまま、
私たちの日常と何も変わらないのである。


ただ唯一、日常の私たちの人間関係と異なるのは、
そこに「尽くす」という行為が含まれるという点である。
ただなんの変りもない人間関係であれば、
ただ尽くす行為であれ、そうした「尽くす」ことに
無自覚でいるのだろう。
しかし、人に「尽くす」ことを選択した時点で、
「尽くす」行為そのものに対し、無自覚ではいられない。
先ほどの自信をなくした彼女の例で言えば、
そこに自覚的になってしまった時点で、
それまで揺るがなかった、無自覚の自信が揺らいでしまったのである。


「尽くす」ことは日常的な行為である。
ただ、それが特殊な所以は、
何の変哲もないであろう、人間関係において、
その関係性そのものが存在することに対し、
自覚することができる、いや自覚せざるを得なくなるということである。


もちろん、自覚的と言う意味においては、
「尽くす」行為によって、「尽くされる」側をつくり、
「尽くす/尽くされる」という関係性に
両者をはめてしまう側面も存在する。
そこに対し、「尽くす」ことが華やかな行為であると自覚することも
もちろん、関係性に自覚的になるという行為に違いない。


しかし、自覚的な行為であれ、
あくまで「尽くす」行為は日常的な行為である。
そして、もっとも重要なことは、
「尽くす」側があれば「尽くされる」側が存在する、
「尽くす」行為とは相互行為に他ならないことに
無自覚ではいけないということである。
「尽くされる」側にとってみれば、
ただ「助けてもらう」わけでなく、両者で「支えあう」関係が理想である。
そこに気づくことができず、
「尽くす」ことで「助ける」ことがすべてであると考える結果、
「ジョゼと〜」の恒夫のように、
あるいは、先ほどの彼女のように、
自信が喪失し、疲れてしまうのである。


あくまで利害関係の生じない、日常的な行為の「尽くす」行為において、
結局理想なのは、
両者にとって、負担にならない関係であるということである。
「尽くす」ことばかりに気を取られてしまえば、
「尽くす」側が疲れてしまう。
一方で、「尽くす」ことが素晴らしい行為だと思ってしまえば
「尽くされる」側の視点など気づくことができない。
だからこそ、
「尽くす」上で、「尽くされる」側にとって、
大した存在にならないくらいの方がよいのである。
「ジョゼと〜」において香苗の心理が変容したようにである。


それにもかかわらず、「尽くす」ことが当たり前のように
なされるべき行為とされるのは何か。
そして、その下で「尽くす」ことへのプレッシャーが生まれるのは
なぜなのか。
それは、「尽くす」ことへの欲望、
つまり、「尽くされる」側への支配欲が、無自覚に働いているのではないか。
言いかえれば、「尽くす」行為によって、
支配欲とか、あるいは名誉といった対価が生じる期待があるのである。


だが、あくまでサービス関係でない日常的な「尽くす」行為によって
対価など生じえないのである。
それは、私たちの日常的コミュニケーションに
対価が生じないのと同様である。
にもかかわらず、「尽くす」行為は素晴らしいとされる言説がはびこるのは
いったいなぜなのか、
私は疑問を抱かずにはいられないのである。

*1:原田隆司[2005]「ボランティアというかかわり」井上・船津編『自己と他者の社会学有斐閣 ,p.255

社会的不安の根源は何か

社会的不安の表面化としての格差論争

 世間では、格差社会論争がいまだに続いているが,
その格差社会論争の火付け役となった一人が、三浦展である。
著書『下流社会』で彼は、
1955年以降の一倍総中流化現象の「1955年体制」に対し、
2005年以降の階層化・下流化現象を「2005年体制」と指摘した。
その転換期が明確に2005年であったかどうかは諸説あるが、
ここ数年で私たちの生活環境は明らかに転換した。
その大きな要因が経済のグローバリゼーションであるし、
その一方で旧来の文化が失われていったことにもあったわけである。
三浦展(2005)『下流社会一新たな階層集団の出現』光文社新書。)
 近年、よく耳にする言葉が「若者の右傾化」である。
たとえば
ネット右翼」や「小泉型ポピュリズム」と呼ばれるものに特徴されるものは、
それが自文化愛と同時に
排他性を秘めたものであるということである。
たとえば、中国や韓国に対して
ネット右翼」たちは非難の視線を強く送る。
また、それだけではなく、「ジェンダーフリー」論者や、
朝日新聞に代表される「サヨク」も彼らの非難の対象となった。


しかし、注意しなければならないのは、その非難の内容ではない。
そもそも、彼らが非難をするのも、主張的な対立があってのことではない。
たとえば、朝日新聞を批判するときに
朝日新聞のこういう主張がいけない」という批判がなされるわけではない。
朝日新聞の建前論理に対し、実体性にズレがあり、そこを突くのである。
もっとも典型的な例が、ニート論争である。
二ート(NEET)とは、”Not in Education,Employment or Training”
(15-34歳で、就業もしていなければ、
教育も受けておらず、また求職活動もしていない若年層)
と定義される存在である。しかし、ニートに対する批判はもっぱら、
「自立していない若者」や「自分勝手な若者」といったフリーターや引きこもりと
混乱した語句の使用がなされている。
また自称・ニートの人がテレビに登場し
「働いたら負けかなと思っている」と発言をすると、
その発言をめぐり論争となり、
ついにはその発言者を2ちゃんねらー
英雄化した事実も存在するのである。
繰り返しになるが、
ニートという実態がここで問題とされているのではない。
ニートをめぐるコミュニケーションの形式こそが、
議論の対象とされているのだ。

社会の分極化と社会的不安の増長

なぜこのようなアイロニカルな議論しかなされないのか。
それは、それまで社会を覆っていた
価値規範、イデオロギーが現在存在しないからである。
ダニエル・ベルが豊かな社会の到来により
イデオロギーが終焉すると述べたようにである。
東浩紀はこのイデオロギーの終焉した状態で、
データベース的な記号消費が行われるようになるとする。
データベース的な記号消費の典型例が、「萌え文化」である。
萌えにはそれまでの恋愛イデオロギーのような汎用性が存在しない。
一人ひとりは「萌え」るが、その「萌え」における感動の経験が
他者に伝わりようもない感動なのである。
こうして、社会は分極化されていくのである。
東浩紀(2001)『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』講談社現代新書。)


社会が分極化されたとき、
それまで社会規範が担っていた治安の形態も変化する。
フーコーが近代の特徴を規律訓練に求めたように、
たとえば学校という場は規律訓練、
言い換えれば中心からの監視、権力構造によって成り立っていた。
教師と生徒の関係はまさにその典型である。
しかし、規律というものがそもそも汎用性を失った以上、
これは有効に働かなくなるのである。
そこで、東が『情報自由論』で指摘するのは、
規律訓練に変わる環境管理への移行である。
監視社会化もこの一環であると考えられる。
これまで子どもの居場所は親が把握できていたし、
できていなくても地域や社会が守ってくれていたので
子どもが犯罪に巻き込まれることなどごくまれだった。
ところが、この治安構造が崩壊したとき、
子どもを守る存在がいなくなり親に不安が募るようになった結果、
携帯電話のGPS機能で把握をしようとするのである。
東浩紀(2003)「情報自由論−データの権力、暗号の倫理」『中央公論』(第1回:2002年7月号〜第14回:2003年10月号)。)


だが、いつでもどこでも
機械的に監視されるというのはよいことなのだろうか。
たとえば、私たちが監視されている身近なケースとして、
ケータイのメール機能を挙げることができる。
辻大介は「電話は話したくなければ切ってしまえるので気楽だ」というように
テレビチャンネルのフリッピング行動のような対人関係が見られ、
これを「フリッパー」志向と称す。
その一方で辻は、
同時にケータイに着信・メールがないと孤独感が増すとする若者が多く、
その解消法としてメールをすることを選び、
その絶え間ないつながりによって孤独や不安が絶え間なく循環されていると指摘する。
辻大介(2000)「若者のコミュニケーションの変容と新しいメディア」船津衛・廣井脩・橋元良明編『子ども・青少年とコミュニケーション』北樹出版 p.21-25参照。)


アンソニー・ギデンズはこうした関係性を「純粋な関係性」と呼んだ。
これは外的基準に規定されず関係性そのものによって規定される関係のことである。
たとえば、一昔前までの恋愛には、
純粋な恋愛感情のほかに家族関係やジェンダー関係が強く作用していた。
だからこそ、お見合い結婚が頻繁に見られたのである。
しかし、家族関係やジェンダー関係といった外的基準が希薄化してくると
お見合い結婚は下火になり、恋愛結婚が主流となるのである。
アンソニー・ギデンズ(1995)『親密性の変容―近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(松尾精文・松川昭子訳、而立書房)。)


だが、そこでは常に自己を点検していることが求められる。
恋愛のケースであれば、常に自分を磨いていなければ、
よっぽどの美男美女でなければ、恋愛市場では生き残れない。
というのが事実でないとしても、そういうプレッシャーがかかることこそが、
ここで問題なのである。
むしろ、自己責任や自己宿命を追い求めず、
そこから「お祭り」のように逃避することこそが、
鈴木謙介が言うような「カーニバル化」現象なのである。
冒頭の事例である「右傾化」現象も、
実はたとえば雇用問題や政治問題といった実態から目を背け、
「お祭り」気分でその問題をやり過ごそうとしているに過ぎないのだ。
鈴木謙介(2005)『カーニバル化する社会』講談社現代新書。)


しかし、環境管理化が進み監視社会化が進むと、
人間関係は機械的になってくる。
たとえば、生身の人間関係ではありえなかったように
携帯電話という機械を通じて私たちは、
人間関係を計算できるものと考えるようにになってしまった。
人間関係を切り捨てるだけならまだいいのかもしれない。
切り捨てられるリスクでさえも、計算によって回避しようとしていくようになる。
それこそが、最近流行の「空気を読む」ということなのではないだろうか。
土井隆義が『友だち地獄』で述べるところによれば、
「あるがままの自分」を目指そうとするゆえに、
自分自身はあるがままではなくなっていくのである。
土井隆義『友だち地獄-「空気を読む」世代のサバイバル』(2008)ちくま新書。)

コミュニティの力が社会的不安を緩和させる

こうした事態だからこそ、私たちは今、
人間関係や社会に計算不可能性を復活させる必要があるのだといえる。
その手法こそが、
コミュニティの力による社会的連帯によるリスク管理なのである。
私たちはこれまで、55年体制
という安定した社会規範の下で生きてきた。
それが崩壊した以上、もう一度新たに社会に公共性を取り戻し、
また非実体化した地域集団を実体化させていかなければならないのである。
その中にあって私たちは自身は、
まず汎用性があるような人間となり、
また日常生活の中に一時の楽しさや現状の利便性にとどまらない
「かけがえのない個人の感情のベースキャンプとなる郷土」を
取り戻していかなければならないのである。
その認識がかけていることこそが、
あらゆる社会的不安の根源なのではないだろうか。

「かる〜いコミュニケーション」の奇妙さとその克服可能性

大森美香論は相変わらず放置したままだが、
とりあえず、久しぶりに連続的に別の内容を投稿してみる。

「かる〜いコミュニケーション」について

コミュニケーションが自己と他者との意思疎通の役割を果たすとすれば、
そこに「軽い」や「重い」などの度量は
存在するのもよく理解できないものだ。
そもそも、何をもって軽いとか重いとかを判断するのか。
しかし、それでもよく私は
「かる〜いコミュニケーションにしてよ」みたいなことを
よく言われるわけである。


そもそも、たとえば「かる〜いコミュニケーション」の意味を
私がよくわからない、理解できないとして、
コミュニケーションが自己と他者の間の意思疎通であるのだとすれば、
他者のために、自己は「かる〜い」とは
いったい何なのかを説明しなければならない。
しかし、私が、つまりここでの他者がそれを理解できないまま
なんとなく、会話が進んでいってしまう、という点に、
実は、私は「かる〜い」の意味が存在しているように思える。

コミュニケーションにおける背景知識の重要性

社会学で会話分析の分野がある。
私はもちろんその分野の専門ではないのだが、
だいたいのこの分野の研究内容は、
会話の背後にある関係性を分析する、というものである。
たとえば、以下のような会話を想定しよう。
これは、ドラマの「アットホーム・ダッド」の第1話で出てくる一シーンである。
 笙子:「ねぇあなた、私あれ忘れてた!」
 優介:「え?」
 笙子:「うっかりだわー、あれよ、あれ!」
 優介:「あ、あれ、あ、そっか!」
 笙子:「私どうしよう、すみません私用事思い出しちゃって。」
はっきり言って、ドラマ本編を見ていなければ、
何の会話をしているか、さっぱりわからない。
ちなみに、この会話の内容というか背景だが、
引っ越してきた山村家の美紀が、隣の杉尾家の優介・笙子夫妻に
引っ越しのあいさつをしているときに、
ちょうどご近所仲間のボスで、若干うざがられている岩崎がそこにやってきて
会話の邪魔をしているシーンである。
杉尾家夫婦は、もとからその地域に住んでいるから岩崎のうざさを知っている。
だから、笙子が「あれを思い出した」という「あれ」とは
別に何のこともない、まったく意味のないものなのであり、
この会話全体を通して、会話から抜け出たいということの意思を
夫婦でキャッチボールしている、というわけである。
と言われても、ドラマの物語展開も知らなければ、
またこのシーンがどのようなシーンかわからなければ、
はっきり言って何の会話をしているかもわからなければ、
そもそも笙子のいう「用事を思い出しちゃって」とは
誰に言っているのかすらもわからないわけである。
このように、その会話だけをたんに聞いているだけではわからない
会話の背後にある関係性を見出すことが、エスノメソドロジーの仕事である。


とはいえ、会話の背後にある関係性を見出すこと、知覚することは、
会話分析という学問分野の仕事に特化してもならない。
たとえば、私たちが外国に旅行したり留学したとき、
外国人、というかその土地の人たち同士が何かを会話しているとしよう。
それを私たちが理解するのであれば、
単に言語を翻訳するだけでは、絶対に完璧に理解はできない。
やはり、その土地の文化という背景知識がなければ
会話を聞く限りで、その人たちが何を会話をしているのか、
理解ができないのである。


もちろん、これは私たちが第三者として他者の会話を理解する
ということには限られない、というのが今回の議論の本質である。
つまり、私という自己と、誰か他者が会話をするとき、
いや、会話に限らないコミュニケーションをするとき、
それは、相手の理解なしに、完璧なコミュニケーションなど
確立されうらない、という意味なのである。
たとえば、アイコンタクトなど、いい例である。
アイコンタクトとは、眼と眼の会話、
つまりノンバーバルコミュニケーションだ。
アイコンタクトのようなノンバーバルコミュニケーションでは、
こうした他者の意図する何か言外の事柄を、
その他者の目つきからして理解しなければ、
コミュニケーションは成り立たないわけである。
私たちは普段バーバルコミュニケーションこそが
コミュニケーションである、というのを当たり前とするが、
たとえば、乳幼児や、障がい者、あるいは寝たきりの老人など、
社会には、言葉を発しようにも発することができない人が
ごまんといるわけである。
こうした人々とのコミュニケーションは、
どうしてもノンバーバルコミュニケーションに頼らざるを得ない。
特に、乳幼児や寝たきりの老人といった属性の人々とは、
私たちは、必ずや人生に一度は接することはある。
つまり、私たちにとって背景知識を必要とするような
コミュニケーションとは、本当は身近な存在なのである。

コミュニケーションの形式そのものが問われるようなコミュニケーション

この、背景知識を必要とするコミュニケーションについて、
今村光章は「ディープ・コミュニケーション」と呼ぶ。
ここまで私が筆をとっていて、
どこか誰かの主張の受け売りのような気がして本棚を探せば、
やはり今村氏、いや今村先生の議論のままだったわけである。
今村先生にはちょうど2年前、
教職の道徳教育法に関する授業でお世話になったわけだが、
その講義内で扱われた概念こそが、
この「ディープ・コミュニケーション」だったわけである。
もちろん、こうした概念を提示する背後には
彼なりの批判意識があるからであるが、
それが、「感情体験希薄化症候群」と名付ける現象についてである。
詳しくは、書を手にとってご確認いただきたい。


さて、この「感情体験希薄化症候群」と名付けられた現象については、
社会学の分野でも、
コミュニケーションの形式こそが重要視されるコミュニケーションとして、
鈴木謙介北田暁大、あるいは哲学なら東浩紀らによって
指摘されていることと、似た意味をなすと考える。ただし、若干異なる。
つまり、たとえば「ニート論争」であれば、
ニート」の本来の意味、つまり
"Non in Education, Employment or Training" の意味については
全くもって議論の内容から捨象され、
たとえばフリーターや引きこもりのような人についても
ニート」と称したり、
あるいは、そこから「自立していない」とか「自分勝手」とか、
つまり、本来の背景事実はまったく議論から排除され、
「働かない」という言葉のみを取り上げて、
そこから感情論が広がっていく、
それが「ニート論争」を簡単に要約したものであるといえる。


ただし、コミュニケーションの形式そのものを重視するコミュニケーションが
はたしてコミュニケーションとして不成立である、と
本当に判断していいのかは、疑問が残るものである。
たとえば、それこそ先ほどの「アットホーム・ダッド」の
杉尾家夫婦の会話である。
会話そのものは、まったくもって形式的な要素のみに占められる。
しかし、その背後には、夫婦の間で、
「岩崎はうざい」という感情が共通し、また疎通が取れたからこそ、
こうしたまったく内容的に意味をなさないコミュニケーションが
成立しうるわけである。


同じような例は、私たちの日常生活にありふれている。
それが、バーチャルコミュニケーションである。
つまり、ケータイやパソコンの上でのコミュニケーションとは
相手の目の動きや、わずかな動作をすべて捨象した、
純粋な文字のみのコミュニケーションなのである。
しかし、それでもコミュニケーションとして成立しうるのは、
そのコミュニケーションの背後には、
お互いの意識の共通性が見られるからにすぎない。


もちろん、バーチャルコミュニケーションにおいては、
意思の齟齬は、リアルなコミュニケーションに比べ生じやすい。
生じやすいというか、それをあえて楽しんでいるのが、
たとえば、2ちゃんねる的なコミュニケーションであるともいえる。
とはいえ、2ちゃんねる的コミュニケーションは
やはりコミュニケーションとしてはやや無機質に感じてしまうものであり、
2ちゃんねるを敬遠する人の多さは、それを象徴されるともいえる。
鈴木謙介が指摘するように*1
パソコン的コミュニケーションとケータイ的コミュニケーションの間では、
コミュニケーションする他者に対する期待の上で、
前者がやや希薄なのに対し、後者が濃密なのも、
それを象徴しているように思える。


だからこそ、バーチャルコミュニケーションにおいては、
その齟齬を解消させるために、顔文字という機能が用いられるわけである。
ただの文字のみのメールや投稿を読むよりも、
たとえば、笑顔の顔文字を使えばポジティブな会話になるだろうし、
また、泣いている顔文字を使えば悲壮な会話になるだろう。
とはいえ、その意思の齟齬を完全に解消できないところに、
顔文字の欠陥、というよりはその特徴があるようにも思える。


バーチャルコミュニケーションには身体性がない。
先ほど述べたように、
一つのメールや投稿を送られてきたとき、
そこに笑顔の顔文字がたくさんあって、さも相手はうれしいんだろうなと思っても、
それは、「あえて」その顔文字を使っているかもしれないのであって、
その「あえて」の真意までは、やはり完全には解釈しえないわけである。


ただし、その解釈しえないというのも、
あくまで「完全に」という範囲でしか議論はできないのではないか。
つまり、そのコミュニケーションの形式そのものののコミュニケーションでさえ、
つまり、顔文字という形式によって判断される
ケータイやパソコンのバーチャルコミュニケーションでさえ、
その背後に、相手の知識が自分自身にどれだけあるか、
つまりそれが身体性の領域の情報なのであるが、
それがどれだけあるか、という度量によって、
ある程度は判断しうるのではないか、ということができるのではないか。
そこに、今村の「感情体験希薄化症候群」という名称に
問題があるのではないか、という疑問が生じるわけである。
つまり、本当に、たとえばケータイやパソコンのコミュニケーションは
感情体験が希薄化したコミュニケーションであると
断定できるのだろうか。


鈴木は、前掲書で「メールを送る」という行為についてだけ見ても、
道具的な機能と、表出的な機能があるという。
これはプレゼントの贈答のコミュニケーションと同じ意味をなす。
つまり、私たちが誰かにプレゼントを贈るとき、
プレゼントを贈ることという行為そのものに意味をなすのか、
それとも、行為の背後には何か意図があるのか、
つまり、たとえば「お見舞い」の花束そのもので
相手にお見舞いの気持ちを伝えるようなプレゼントもあれば、
逆に同じ結婚指輪であっても、相手への想いをその指輪に託すわけだから、
それが相手に伝わるような指輪でなければならないというものもあるのである。
つまり、同じ顔文字であってさえも、
戦略的な顔文字であるのか、それとも感情をこめた顔文字なのか、
さまざまに意味は存在するだろうし、
それを同一化して、顔文字とは感情体験が希薄化した象徴だ、
とするのには、問題があるのではないか、と考えることができるわけだ。


そこで、「メールを送る」という行為について立ち戻って考えてみれば、
その行為へのアクセスの動機こそが問題となるのではないか。
つまり、たとえば出会い系サイトや2ちゃんねるといった
オンラインで出会う他者とのコミュニケーションであるのか、
それとも、リアルな空間で出会った他者に対するコミュニケーションに
「メールを送る」という行為を用いるのか、という違いである。
宮台真司は、この前者に対し「二次的現実」、
後者に対して「一・五次的現実」であると区別しているのだが、
つまり、この「二次的現実」におけるコミュニケーションであれば
相手に対する情報は全くないところから
コミュニケーションを構築していかなければならない。
だからこそ、戦略的にコミュニケーションを進めていかざるを得なくなる。
あるいは、妄想に基づいたコミュニケーションが展開される。
一方で、「一・五次的現実」のコミュニケーションであれば
相手の情報がある程度備わった上でコミュニケーションが展開されるわけだから、
それが本来濃密であればあるほど、意思の齟齬は生じなくなるだろう。

身体性への考慮が意志の齟齬を回避させる

さて、そこで「かる〜いコミュニケーション」についてである。
これは、リアルな関係性において繰り広げられる
コミュニケーションの形式そのものを重視されるコミュニケーションで
あると考えることができよう。
では、「軽い」と「かる〜い」の違いは何か。
軽いとは、本来的に軽いという意味をなす。
逆に「かる〜い」とは、本来的に軽くはないものを
「あえて」軽くしようという意味をなすものである。
「軽い」の意味を考えるために反義語を考えると、
つまり「重い」とは、相手にとって負担がのしかかる状態、
たとえば、知識的に、あるいは精神的に、などであるといえる。
「軽い」とはそうでない状態であると考えよう。


すると、「かる〜いコミュニケーション」とはどうやって成立するのか。
それは、「あえて」「軽く」するのだから、
つまり、相手に負担ののしかからないコミュニケーションを
「あえて」選ぶということになるわけである。
となれば、必然的にコミュニケーションの形式そのものが重視される、
つまり、そのコミュニケーションの背後の知識など捨象され、
万人受けしそうな話題を選び、そして「わかったふり」をすることで、
コミュニケーションは成立するのである。
つまり、この「かる〜いコミュニケーション」とは、
行為主体がともに「わかったふり」をすることでしか成立はしえないのである。


この議論の当初で挙げた実話も、
だからそもそも、「かる〜いコミュニケーション」において
「わかったふり」という態度が求められる中で、
「軽い」とか「かる〜い」とか
そういうことの意味を考えることすら、
ナンセンスであるということになってしまうのである。
コミュニケーションの本質にあるであろう身体性という背景知識が
捨象されることがこうして当たり前となった、
「かる〜いコミュニケーション」について、
やはりバーチャルコミュニケーションで感じられるのと同じ
奇妙な感覚を覚えずにはいられないのである。


とはいえ、だからそれが
コミュニケーションの形式そのものを重視したコミュニケーションへ
否定的なサンクションを与えるのも、
またおかしな話なのである。
コミュニケーションの本質は、やはり身体性という背景知識の有無に
かかっているとも考えることができる。
だからこそ、バーチャルコミュニケーションであれ、
リアルのコミュニケーションであれ、
コミュニケーションの形式そのものを重視したコミュニケーションであれば
身体性という背景知識がどれだけそこに反映されているか、
ということを重視する限りにあっては、
意志の齟齬が生じる確率は低くなるのではないか、と考えることができるだろう。

*1:鈴木謙介[2007]『ウェブ社会の思想』p.96

「他者の他者」とはどういうことだったのか

大森美香論は実は散々だらだらと書いて未完なのだが、
とりあえずそれは置いておくとして。
ふとひらめいたことが、どうしても書き記しておきたかったことなので、
こちらを優先する。


じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)


鷲田清一の『じぶん・この不思議な存在』を読んでいて、
「他者の他者」という概念が出てきた。
社会学では、たとえばミードが自己の中の他者性について発見し、
自己をIとmeに分け、社会的対象としての「自我」であるmeを発見したわけである。
また、クーリーは他者とは「鏡としての自己」であるとし、
他者に移るイメージと自己との関係性を見出したわけである。
しかし、「他者の他者」とはどうしても理解ができなかった。
他者のための他者であるとすれば、
例えば、誰かのために働くということであったりとか、
好きな人のためにプレゼントをする、
社会のために奉仕する、といった役割関係に規定されたものを思い浮かぶ。
しかし、鷲田はそうではないとする。


「他者の他者」とはいったい何なのか。
例えば、学校を飛び出した子どもを母親が迎える際、
「私のことが嫌い?」と聞いて子どもが「うん」と答えたとき、
母親がどうやって返すのか。
鷲田は4つの例を挙げたが、そのうちビンタを食らわすケースと、
「そう言うけど、あなたは本当は私のことが好きなのよね」と言うケースの2つのうち、
後者は、まさに他者にとっての他者が死んだ(と書いてあったかは忘れたが)ケースであり、
前者こそが、「他者の他者」を体現したケースであるとした。
普通に考えれば、母親がすべき行動としては後者が当たり前であるのに、である。
鷲田は「他者の他者」について他にもいろいろ例を挙げているが、
どうしてもそれは理解が難しかった。


が、先に述べた社会学的な、関係性という視点を用いて考えてみると、
なんとなくわかってきたわけである。


例えば、自分のことばっかりを話す人がいるとする。
コミュニケーションとは、うちの大学の某先生ではないが
"You consideration"、つまり思いやりあってこそ成り立つものだが、
自分のことばかり話す人は、なぜ自分のことばかりを話すのか。
もちろん、思いやりがない人もいるだろう。
だが、そもそも思いやりとは何なのかということを理解していない人も
いるのかもしれない。


だが一方で、相手のことを考えすぎてもコミュニケーションは成立しない。
例えば、相手の好きな話題はなんだろうと考えすぎてしまい、
肝心の言葉や態度を示すことができない。
これは大森美香論でとりあげた「きみはペット」の当初のスミレのようなケースであるが、
そもそも自分の思っていること、考えていることを素直に相手に伝えられなければ
コミュニケーションは成立しないのである。


コミュニケーションとは、素直さが大事である。
だが、素直さとはなんだろうか。
「会話は楽しくなくちゃね!」とよくいうけれども、
楽しさとはいったい何なのか。
もちろん、鈴木謙介が言うような、「カーニバル」の楽しさ、
つまり、盛り上がれば楽しい、というような享楽性とは区別されるものである。
一瞬の享楽的な楽しさではない、素直な楽しさとはいったい何なのか。
つまり、素直さとはいったい何なのかということだが、
そういうことを考えることこそがナンセンスである、というのが、その答えである。


コミュニケーションとは、「そこにいること」を共有していなければ成しえない。
もちろん、コミュニケーションの形式は色々ある。
言語を通じたものもそうだろうが、
アイコンタクト、あるいはラッシュ時の満員電車の「しきたり」など、
なんでもいいのである。
例えばそのラッシュ時の満員電車の例であれば、
例えば電車の中ではリュックをしょっていては邪魔であるということも、
同じ満員電車に乗っていて、
邪魔なことをされたらただでさえ窮屈なのに余計に迷惑だ、
ということを、誰しも満員電車という場を共有し思いを一致させているからこそ、
その「しきたり」が成り立つわけである。
「そこにいること」を共有することとはそういったことである。


だが、その「しきたり」についていったい誰が考えるのか。
気にしだしたら仕方がないのである。
「なんで満員電車の中ではリュックを下ろさなければならないのか?」ということも
素直に、その「そこにいること」を共有する人間の一人の立場に立てば
わかることなのである。それが素直さなのではないか。


また、逆に「しきたり」に変に神経質になるのもあほくさい話である。
満員電車でもない、がらっがらの電車の中で、
周りを気にするあまり、かばんを下ろす、そんな人はいないわけである。
重いからとか、大事なものが入っているから、とかそういう理由なら別だ。
しょっていたら迷惑であろうと考えれば、
確かにきりがない。
駅に着いてその駅で駆け込み乗車をしようとする人にぶつかるかもしれないが、
そういった要素を挙げれば挙げるほど、きりがないわけである。
そして、それを考えれば考えるほど、神経質になればなるほど、
無駄な労力をそこに費やさなければならなくなるのだ。


満員電車の例は少しわかりづらいかもしれないので、
言語を用いたコミュニケーションに戻す。
その「しきたり」でいえば、昨今人気の「空気」という言葉である。
「空気を読む」ということは大事である。
だが、ここで疑問なのは、「空気を読む」ことをしすぎることは
果たして本当に意味があるのかということだ。
私たちは、「そこにいること」を共有していれば、
つまり言い換えれば、同じ「空気」を共有していればこそ、
いわゆるKYな発言、行動をしたくないと思う。それは当たり前である。
だが、KYな発言、行動を気にするあまり、気にしすぎたとき果たしてどうなるのか。
はっきり言って、その「空気」とは、何の意味もない言葉を連ねた、
本当に面白くない空気へと変貌するのではないか。


また、そのKYな発言、行動はどこから来るのかということである。
確かにそれは、本当にもともとKYな人なのかもしれないが、
KYな発言、行動をしてしまった自分を反省する背後には、
「空気」を汚したくないという強い思いがあるのではないか。
つまり、その思いが強ければ強いほど、
KYな発言、行動をしやすいのではないかということである。


だが、よく考えれば、繰り返しになるが
その「空気」を考えること自体が、実はナンセンスなのである。
だからこそ、素直にいればよい、何も無理をする必要はない、
それこそが、一番「空気を読む」ことに近い行動なのではないか、と考えられるわけである。


ただし、ここで断ると、
「空気を読む」ことにがんばることそのものがナンセンスであるとは言えないわけである。
時には、そういう行動も必要である。
例えば、「空気」そのものがないときである。
例えば、上司に気に入られたい、あるいは好きな子に振り向いてもらいたいというとき。
そういうときには、「空気を読む」こと、
つまり、相手の気に入るものとはなんだろうか、とかいうことを特に気にして、
「空気」を正常であらせる必要があるかもしれない。
しかし、それでも、一回上司に認めてもらえれば、あるいは好きな子に振り向いてもらえれば、
そういうことを考える必要はなくなるのではないか、ということなのである。
むしろ考えることによって、その関係性は危うくなるのではないか。
それは素直な関係、言い換えればギデンズのいう「純粋な関係性」が危うくなるからである。
考えすぎればすぎるほど、お互いの関係は共依存の関係へと陥るだろう。


だからといって、素直さが重要だからといって、思考停止にすればいいということでもない。
それではまさしく、「自由からの逃走」である。
一番大事なのは、関係性に対するコミットメントの視点を180度転換させることなのである。
つまり、これまでは自分を認めてもらうために関係性にコミットメントしていた。
もちろん、それは大事であるが、一旦関係性の基盤ができれば、
自己は「他者の他者」であればよいのではないかということである。


これを言い換えるために、これまでの考え方を提示する。
つまり、今まではコミットメントの図式が
「自分から相手を通してまた自分自身に帰る」関係性であったわけである。
「自分から相手を通して」というのがアクションで、
「相手から自分自身に帰ってきていた」っていうのが自分自身に対するイメージだった。
そうではなく、今言いたいのは、「純粋な関係性」が構築されたのならば、
「相手の視点から自分を通してまた相手に帰っていく」という逆転の発想、
つまり、「相手の視点から自分を通して」というのが自分自身に対するイメージであり、
「自分自身を通して相手に帰っていく」というのがアクションである関係性、
言い換えれば、自己と他者の関係性ではなく、
他者と「他者の他者」の関係性が必要なのではないかということなのだ。


つまり、自分自身のありようについても変化してくるのである。
私たちが「空気を読む」ことに神経質になっていたのは、
「空気」を壊したくないという強い思いからであった。
その要因は何なのか。
それは、自分がKYというレッテルをはられないためであり、
また裏返せば、自分の存在を危うくさせないため、
つまり、自分の存在を守るためだからなのである。
だが、よく考えれば、自分自身のキャラクターとは、自分が決めるものではないのである。
それは、クーリーの言うことからもわかるとおり、
他者とは「鏡に映った自己」である、
つまり、どんなに自分ががんばっても、
キャラクターを決定するのは、他者なのである。
しかし「自分を守る」ことにこだわらなければ、
つまり自分のキャラクターを決めるのは他者であると割り切ればこそ、
相手のことを考えた発言もどういうものなのかが見えるのだろうし、
また、「空気」が自然に「そこにあるもの」であるというのが見えるのだろう。


だがしかし、そう転換するのも簡単ではない。
まず、自分のキャラクターは他者が決める、とはいえ、
自分自身でそれを感じ取る必要があるのである。
それに関しては、自分自身で他者の側にコミットメントしていく必要があるし、
その上で他者が自分自身をどう思っているのかを感じ取る必要があるのである。


とはいえ、他者へのコミットメントといっても、それも難しいものである。
というか、それがあまり得意でないと自分で感じている人だからこそ、
自分を守るため、「空気を読む」ことに神経質になるのかもしれない。
そこで、片意地張っていた自己像を緩ませ、リラックスさせる必要があるのである。


だが、そのリラックスでさえもそんなに難しいことではないはずである。
それはその「空気」が自然なことを体感すればよいのだから。
つまり、その「空気」を他者と共有できていることの喜びを感じればいい。
些細なコミュニケーション行為でさえ、実はすばらしいことなのである。
今、そのコミュニケーション行為をした人は、
もしかしたら、ひとつの出会いがなければ、
永遠に、何千kmも離れたところにいて、お互い顔を合わすことができなかったかもしれない。
にもかかわらず、ここでコミュニケーションをとれていること、
それはすばらしいことなのではないか、
そう、喜びを感じればよいのである。


それは、誰しもできることである。
そして、些細なことに喜びを見出そうというキャンペーンは繰り広げられる。
だが、どうしてもそれを胡散臭く感じてしまうのは、
「他者の他者」とはいったい何なのかがわからないからこそ、
つまり、自己と他者の関係性の上において、自己が基準となってそれが構成されているからこそ、
それがうさんくさく感じられてしまうのである。
また「他者のための自己」と読み替えられてしまえば、相変わらずその基準が自己のままである。
自己像の転換があってこそ、その些細に共有される喜びは喜びへと変わる。
「他者の他者」とは、
「空気」の中の自分と、些細な喜びとの間を結び、
こうして、自己と他者の関係性の構築を円滑に進めていくものなのではないだろうか。
それが関係性の上で考えたときの私なりの結論である。

大森美香脚本作品のケーススタディ

本章では前章を受け、
きみはペット」、「風のハルカ」、「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」の
ケーススタディを通し、大森美香の世界観を見てみることとする。

きみはペット

本作は、2000年より連載が開始された小川彌生の同名の漫画を原作とし、
2003年4月のクールで、TBS系列の水曜10時のドラマ枠で放映された。
同枠はいわば「死に枠」であり、「ひと夏のパパへ」では視聴率で3.6を記録したほどだった。
本作が現在の視聴者にとって印象があまり残っておらず、
また漫画では5年にわたって連載が続けられたにもかかわらず
ドラマで続編が製作されなかったのはそうした事情もある。
だがそれでも再放送が2,3年に1度はされる(ちなみに現在MBSで再放送中である)し、
また同枠の中にあって10%前半の視聴率を残すなどしたことは、
実際に視聴していた人々には印象を残した結果でもあるといえる。


同ドラマが印象深いのは、
何といっても「男をペットにする」という概念を作中で提示したためである。
放映中は、2ちゃんねるなどで
「飼う」という概念が差別ではないかという意見も多かったようだが*1
実際に「飼う」ことの''是非''や、
本作が実際に「飼う」ことを啓蒙している結果になるかどうかは置いておくとして、
「飼う」ことによって飼い主にどういう影響があるかという点が、
本作において非常に重要なテーマであったということができる。


本作は、キャリアウーマンであるスミレが日常の閉塞感を抱く中で、
バレエダンサーである合田武(松本潤)と出会い、
彼を「モモ」と呼んで「ペット」とする生活をするようになる、
というのが、大まかなあらすじである。
ここで注意したいのは、「ペット」とはあくまで非日常の概念であるということである。
スミレにとって日常であるのは、企業社会とそれに付帯した専業主婦あるいは働くママ像である。
本作をスミレを中心として見ていく上では、
「日常=企業社会・専業主婦あるいは働くママ」vs.「非日常=男をペットとする生活」
という二項対立が浮き彫りとなり、その中でスミレをとりまく関係性やスミレのアイデンティティ
どう変容するかということが、本作を解釈する上で重要となる。
その上で、厳しい視線が働くキャリアウーマンを取り巻く男性中心の企業社会の中で
女性はどう生きていくかということにストーリーの幹がある。


一方で、本作をモモを中心として解釈していくと現れる構図は
「日常=ダンサーの道を極めること」vs.「非日常=ペットとして女に飼われる生活」
という二項対立である。
彼はバレエを続けていたが、親(夏木マリ)のプレッシャーが強すぎたため家出をしていた。
彼もペットとして飼われる中でキャリア観を変容させていくわけだが、
本作では親子関係の親密性の変容についてはじっくりと描かれていないため、
とりあえずこの視点についてはこれ以上触れず、スミレの視点に絞ることとする。


さて、モモと出会った後、スミレは長年の憧れだった蓮實先輩に告白され、付き合うこととなる。
スミレを中心とした本作の構図も、蓮實とモモの間でのスミレの葛藤を中心として描かれる。


蓮實とスミレの関係は、なんとなくぎこちない関係だった。
スミレにとって蓮實とは憧れであり、
付き合うとなれば本来夢見心地の生活となるはずだったが、そうではなかった。
スミレは蓮實の前になると、なぜか緊張し、素直になれない。なぜか疲れてしまうのである。
蓮實もスミレに、もっと甘えてほしいと言うが、なかなかそうできない。
一方で、スミレは家に帰ると、誰に対しても強がっていた我を忘れてしまう。
モモの前では自分の弱さを見せることができ、
モモが家からいなくなれば、心配でたまらなくなり探しに出てしまうほどである。


これは、ある意味本当のペットと人間との関係によって説明が可能であろう。
山田昌弘は『家族ペット』の中で、
「純粋な関係性」がペットとの間でこそ実現しているとする。(山田[2004]p.109)
人間の男女交際の場合は、どうしても打算的な関係が入り込んでしまう。
たとえば、相手の年収や自分の見栄から、付き合うことを損得で考えがちになる。
しかし、ペットにはそういう下心は存在しないから、
お互いがお互いを思うという感情の関係である「純粋な関係性」も実現しやすい。
スミレが蓮實に緊張してしまうのは、
「自分が今こうしたら蓮實にどう思われるだろうか」などと考え込んでしまう結果でもある。
一方で、「ペット」であるモモにはそういった気兼ねは不要なので、
「泣くなら死んだ方がまし」というくらいの涙でさえ見せることができるし、
蓮實とならためらってしまう一緒のベッドに寝ることでさえも、気にならないのである。
また、モモの前で涙を見せることで、
それまで抱えていた片頭痛も次第に解消されていく。


スミレにとって、蓮實とモモとはどっちつかずの関係だったが、
やがてそうした状況でもいられなくなる。
まず、蓮實にとっての恋敵である紫織(酒井若菜)が現れる。
蓮實にとって紫織は全く眼中にない存在だったが、
紫織がなりふり構わず猛烈に蓮實にアタックしていく一方、
スミレが相変わらず自分に対して気を使ってばかりの中で、
蓮實は紫織の姿勢に心が動かされていく。


だが、蓮實はリオデジャネイロへの転勤が決まると、
スミレにプロポーズをする。
スミレはもちろんうれしいのだが、蓮實についていくのであれば、
自らのキャリアを中断し、退職をしなければならない。
一方で、モモはついに母親と対面することで、ドイツ留学を決意する。
結婚して蓮實についてリオに行く気も、
モモを引き止め「ペット」の飼い主としての生活をやめる気もないスミレは葛藤する。


スミレにとっての非日常的な空間が終わりを遂げたのは、
スミレが蓮實にモモとの関係を打ち明けたことだった。
蓮實は「俺にだけはありのままの自分を見せてほしい」と言うが、
スミレは「どんな顔をすればいいんですか?
先輩が思う私ってどんななんですか?
私は、だって先輩に好かれたくって、先輩の思う私になりたくて、
感情ぶつけることだってできないのに、
先輩が私のどこを見てくれているかだってわかんないのに、
そんなこと、簡単になんてできません」と言う。
もちろん、蓮實はスミレがモモをペットにしていることを受け入れられないのだが、
この打ち明けた瞬間が、スミレにとっての「憧れ=恋愛」図式、
つまりあこがれる人に対してなら何でもしようという姿勢の「敗北」であったといえる。


ここで、スミレを中心とした構図を逆転して考えたい。
すなわち、スミレが蓮實とモモに対してどう思われているかである。
実は、蓮實はスミレに対して代替可能な存在としか見ていない。
モモが「ペット」であるという衝撃的な隠し事を打ち明けられた瞬間、
スミレを帰らせ、ツーショット写真を倒すのだが、
これはその他の誰にも言えないような悩み事、隠し事を、
''自らの方から解決させる''姿勢が存在しないことを示しているといえる。
この頃、恋敵であった紫織が退職をしてまで猛アタックをかけていたのだが、
蓮實にとっては、結果的にスミレであれ紫織であれ、
どちらでもよかったのだとも解釈できる。
一方で、モモに自分の存在をどう思っているのかと問いただされた後、
スミレはモモを「武さん」と呼んでしまうが、その時モモは、
自分の役立たずで駄目なところを全部知っていて、
役立たずだけど必要だって、スミレちゃん''だけ''は俺のことを思っててほしい、と泣く。
スミレはそのモモに対して、
「もう大丈夫、どんなモモでも、モモがどこに行っても、ずっと大好きだから」と慰める。
つまり、モモにとってスミレの部屋とは、
スミレと同じくありのままの自分でいられる場所であったということである。


そして、スミレとモモの最後の夜。
これは原作にないドラマ独自のシーンである。
モモの最後のお願いと言うことで、二人はセックスをするのであるが、
その流れのもとにあるのは、
スミレが行かないでほしいと言ったことにある。
スミレは笑顔で見送り、モモは笑って別れるつもりだったが、
結局は勢いでやってしまったのである。
その結果、スミレは見送ることもなくモモが起きる前に家を出てしまうのだが、
それは、モモのドイツ行きを引き止める自信がなかった、というよりは、
スミレにとってただの蓮實の代わりであったことを否定したかった、
つまり、起きて気まずい関係になり、
またどういう顔をしたらいいかわからず素直な自分を出せなくなりたくない、
と思った結果であるともいえる。
二人とも、その結論としては「するべきじゃなかった」と言う。
愛情とは形にしてはいけないものだった、ということである。
だが、その時、非日常は日常の空間へと転換したのである。


結局モモはドイツへ行くことになった。
スミレは会社でも他の人と支えあって生きていくことを学んだ。
一方モモは、ドイツ行きを最後まで迷っていた。
自分のダンスでの成功のために行う留学とかけがえのない日常の間で
最後まで葛藤していたのである。
だが結局、最後の最後にドイツ行きをやめ、成田空港でタクシーに飛び乗る。
モモは途中で交通事故にあい、結局スミレの部屋に帰ってくる。
「私には弱いところもあきれるほどの格好悪いところも全部見せられる存在がいる。
それはまるで奇跡みたいな事だから私はこの手をもう離さない。」
この後は恋人ともペットとも違う関係性となる。
「いつもそばにいて心地いいならそれだけで十分。」


最後にモモがスミレの家事を手伝っているシーンが出てくる。
モモは卵を割るのに殻をボールに入れてしまう。
スミレも包丁で指を切ってしまう。そうしたシーンでドラマは幕を閉じる。
結末として二人は恋愛関係にはならなかったが、
ルームメイトのような関係に落ち着いたということでまとめることができるだろう。


ここでペットと飼い主の関係性について見てみる。
ペットとは餌をもらわなければ死んでしまうし、
飼い主は餌をあげるだけでなく、その他糞尿の処理もしなければならないし、
病気になれば多大な治療費を負担しなければならない関係である。
それでも飼い主はペットをなぜ飼い続けるのか。
それは、ペットが「かけがえのない存在」だからである。
ペットにとってはもちろん、自分の飼い主は生きる上でかけがえのない存在である。
なぜなら、自分で餌を買ってくることはできないし、
糞尿を処理することはできないからである。
一方で、飼い主にとっては、糞尿の処理や餌の購入など、
そんな面倒くさいことをしてまでも飼いたいと思うような要因がなければ飼わない。


糞尿の処理や餌の購入など、人間であればだれでもすることはできる。
これはモモも同じことを言っている。
ペットなど、探せば似た犬や猫などどこにでも売っている。
でも、それでもその犬や猫、小動物じゃないといけない理由があるからこそ、
人はペットを飼い続けるのである。
その要因とは、''私が''餌をあげなければこの子は死んじゃうのではないかという思いであり、
また、それだけでなく、
この子の前でならば気兼ねなく自分をさらけ出すことができる、
という思いではないのか。
それが、ペットと飼い主の間の「かけがえのなさ」である。


きみはペット」のモモとスミレの間にもそれは当てはまるのである。
スミレがモモのためにご飯を作らなければならないのは、
それは飼い主だからである、ということに尽きるのだ。
そしてモモはペットである限り、料理は作らなくていいし、
むしろ作ってはいけないのである。
だが、この作品の「親密性の変容」は、モモの心情の変化によって
その関係性が変容していく様をえがいているといってもよい。
すなわち、ペットがペットである限り、
飼い主に対して自分の感情をお互いに完全に理解しあうことは
できないということである。
たとえば、ペットの犬が飼い主である自分に対してはじゃれてきて、
見知らぬ訪問者には敵対的な態度を見せるとする。
確かに、このペットの犬は心を許した飼い主には「自分」を見せ、
よくわからない訪問者には「自分」を見せてはいないかもしれない。
ただ、あくまでこれは飼い主による解釈にすぎないのである。
犬の方ももしかすると同じように思っているかもしれないが、
あくまでそれは「もしかして」の範囲を超越しえないのであって、
お互いが完全に理解し合った関係性にはなりえない。
モモが自分の感情をぶつけることによって、
スミレとの「ペット―飼い主」の関係は
意義を失ったのだと考えることができるだろう。
だからこそ、最後の最後のシーンでは、
モモは家事を手伝っているのである。


一方で、スミレにとってモモにご飯を作ることは、
自分がモモに対してだけ素の自分を見せられている限り、
絶対に苦痛ではないのである。それは飼い主だからだ。
また、モモが将来を約束されたダンサーであり
ドイツ行きを引き止めることが彼の将来を壊す意味をなすならば、
彼女がドイツについていく可能性も確かにあったかもしれない。
しかし、それでは結局、
モモとの関係が蓮實と同じ関係性に落ち着いてしまうことになる。
蓮實についてリオに行く可能性を否定した以上、
彼女にとってドイツ行きの可能性もありえなかった。
一方で、モモにとってはドイツ行きとは
実ははっきりした意味をなすものではなかったのである。
たとえば、「ドイツに行かなかったらどうなのか」
ということはモモにとって重要な価値を持たず、
自分を成長させるために行くだけなのである。
しかしそうした思いが彼にとってそれほど大きくなく、
またスミレとの生活を天秤に掛けた時、
最終的にはスミレとの生活の方が重かったからこそ、
ドイツ行きを直前でやめて戻ってきたのである。*2
だが、改めて断れば、そのスミレとの生活とは、
恋愛感情に規定されないものである。


以上のように本作で注目すべきは、
「ペット」という関係性はあくまで重要でないということである。
あくまで作中の設定にすぎない。
本当に重要なことは、
鎧をかぶってキャリアウーマンが
男性的企業社会で生きなければならない現実の中で、
いかにその男性性の鎧を外すかということに
焦点が当てられているということではないか。
それは、鎧を外すとすれば、
やはり本来の女性に戻り、
キャリアをあきらめなければならないのか、
という現実に対する批判でもある。
大森がそこで対案として示すのが、
最終的にモモとスミレが落ち着いた、
恋愛関係でも「ペット―飼い主」関係でもない、
「かけがえのない存在」との、不思議な「親密な関係性」である。
だが、その関係性は「純粋な関係性」であり、
また、従来の「恋愛」にも規定されず、
また「ペット―飼い主」関係でもないので、 
餌=料理などの身の回りの世話も、
必ずしもスミレがする必要ないのである。


そこを「ペット」というキーワードだけにとらわれてしまうと、
どうしても本作を旧来のジェンダー概念で
とらえなければならなくなってしまう。
たとえば、「飼う」という言葉から連想し
男性差別である」とするような
ジェンダーバックラッシュのような批判や、
あるいは、スミレは仕事も家事もどちらもやらなければならず
スミレだけが「損」をしている、とする、
従来の文化の秩序維持という政治的側面に着目した観点から
抜きんでることができないのである。
本作を解釈する上で大事なことは、
従来のジェンダー性に拘束されない
(≠解放された)関係性の構築の側面に
着目すべき点であると指摘することができるだろう。
この点は、「風のハルカ」における、
ハルカの母・木綿子(真矢みき)を中心に、
父・陽介(渡辺いっけい)と青木健二(別所哲也)の間に見られる
対立性に同様の指摘ができるが、
この点を含めて次節で見ていくこととする。

風のハルカ

風のハルカ」は、
2005年度下半期のNHK連続テレビ小説として放映された。
朝の連続テレビ小説といえば、
共通文化の養成において重要な役割を果たし、
特に女性の生涯をスポットに当てる上で
男性的な企業社会に立ち向かうヒーロー性を前面に出し
たとえば「おはなはん」のような代表作を生み出してきた。
近年その傾向は停滞しているが、
風のハルカ」が、そうした朝の連続テレビ小説
共通文化の養成という文脈に対し、
一つのアンチテーゼを提示したことで
その停滞傾向を僅かばかりであるが止め、
また独自のファン層を生み出すこととなった。

こうした共通文化の養成という文脈の上で
風のハルカ」を考えることに関しては、
ジェンダー視点で朝の連続テレビ小説を読む」(『唯物論研究年誌〈第11号〉ジェンダー概念がひらく視界―バックラッシュを超えて』所収)
の中で和田悠が「風のハルカ」について取り上げていることから、
そちらを参照していただければよいと思う。


ただ、今回ここでの指摘における視点は和田の主張と少し異なる。
和田は朝の連続ドラマ小説の文脈の上で主張を展開する上で
主人公・ハルカの成長というストーリーを
自らの主張の核におくのに対し、
ここでは、ウォーナーのいうような家族の二層性に着目したい。
家族の二層性とは、核家族といっても
親としての家族と子としての家族に別れるということである。
つまり、親としての家族とは
自ら結婚によって家族を作り上げるものであるのに対し、
子としての家族とは
自らの意思に関係なく生み育てられるような家族である。
ウォーナーは前者を生殖家族、後者を定位家族と呼んだのだが、
風のハルカ」においては、この点で
前者としての水野家の離合集散と、
後者としてのハルカをはじめとした恋愛―結婚(―出産)の
二つのテーマに、物語のパーツを
大きく整理することができるのではないか。
そして、その二層性を取り入れた本作は
それまでヒロインの後者の部分しか描かなかったストーリーに
前者の部分を取り入れることによって、
作品のストーリーの深みを増すことに成功したといえるだろう。


その上で、大森作品の流れをみてみると、
風のハルカ」が大森作品の上でも画期的であったことがわかる。
きみはペット」や「不機嫌なジーン」が
「企業社会―恋愛/結婚」という構図に限定される中で、
そこに家族という関係性を取り入れたためである。
つまり、家族とは自らの結婚で作るものであるが、
一方で自らの意思と無関係に親によって作られるものであるし、
また自分の子どももその家族を「つくる」自由がないのである。
水野家の、定位家族―生殖家族という二層性から
風のハルカ」が目指そうとしていたことは
この点で単なる批判的視点にとどまらない、
新しい関係性の構築の一つの方法を提示することにあったことを
くみ取ることができるだろう。


その一つの方法とは、「家族のレストラン」である。
当初の「家族のレストラン」とは、
陽介が専業主婦業に追われる木綿子を解放させることに
目的があった。
そして陽介は脱サラをし2人の子どもも連れて
大阪を出て湯布院へとやってくるのである。
だが、その夢は、木綿子との離婚を経て挫折を経験する。
その後、「母不在」の崩壊した家族が描かれ、
また、木綿子に健二という新しいパートナーができたことで
陽介は「家族のレストラン」経営、
つまり家族4人で暮らす温かみのある食卓をあきらめてしまう。
だが、ハルカにそれが健二への嫉妬であると見破られ
「お父さんは逃げている」と非難されたことをきっかけに、
もう一度「家族のレストラン」経営に向け奔走するようになる。


「家族のレストラン」再建が現実的なものとなったのは、
ハルカが湯布院に帰ってきた後の音楽祭だった。
音楽祭で大勢の客が押し寄せた結果、
町の人間が音楽を楽しめなかった反省から開いた後夜祭は、
レストラン跡地を会場とした。
その後夜祭は地域の人々の協力あって成功した。
ここから、「家族のレストラン」の再起は
陽介と血縁関係のない木綿子の家族をはじめ
地域の様々な人々のつながりの中で実現していく。


「家族のレストラン」の名称も、
最初の「ゆうこ」から、再建時は「風のレストラン」に
変わっていた。
「ゆうこ」とは、まさしく自分の妻であった木綿子の名である。
この名称には、夫が妻を独占するという閉鎖的な関係性が
あらわれているといってもよいだろう。
一方で「風のレストラン」とは
離合集散の開放的な関係性の象徴である「風」が冠されている。
この「家族のレストラン」の名称の変化こそが、
作中の家族像の変化そのものの象徴なのであり、
また、開放的な共同性こそ、
大森が提示したかった家族像、ジェンダー像であると考えられる。
このような作中の「親密性の変容」を前提として
水野家の4人の関係性の変容を見てみるとおもしろい。


当初のハルカとは、「母不在」の一家の中で
まさに母の代理であったということができる。
そのきっかけは、両親の離婚であったが、
離婚に伴い本来は母・木綿子について大阪に行くはずの
アスカ(黒川芽以)がハルカを頼って湯布院に帰ってきてしまう。
一方で、同時期に木綿子と対照的に、
近所の老舗旅館・倉田旅館では百江(木村佳乃)が
29歳も年上の主人・宗吉(藤竜也)と結婚し、
倉田家に「お嫁」として嫁いでくる。
この姿を見たハルカは、
一家を捨てて出て行った木綿子を対抗的存在として、
また自分は「お嫁さん」になることを夢見ていく。


その結末は、ハルカの大阪への「出稼ぎ」である。
ハルカは、陽介が日雇いで一家を支える中で、
バイトをして生計の手助けをしていた。
しかし、それでもアスカが自らの意思で東京への大学進学を
希望したことで、その学費を稼ぐために、
木綿子のいる大阪に出るのである。


ここで、ここでのハルカのキャラクターについて
アスカと木綿子との比較を通して振り返ってみる。
アスカは「母不在」の家庭にスティグマを感じていた。
その思いを小説に託し、その小説は賞を受けるのだが、
アスカはそうした未来のあるはずの自分の才能は、
家族のせいでだめになっている、と感じるのである。
だからこそ、家を出るということで、東京に行くのである。
ハルカが一家の母の代理であったのとは対照的にである。
そして、ハルカが大阪へいった後、
デビュー小説の印税でアスカは経済的自立を果たし、
ハルカの働くことの意義は早くも失われることになる。


一方で、木綿子が陽介と離婚した理由は、
陽介にここまま付き合っていては
自分の描く社会復帰の夢が閉ざされてしまうからである。
当初の「家族のレストラン」も、
陽介が「男が夢を持った時は家族は応援するものだ」と
発言するように、夫―その他家族の主従関係に依るものだった。
木綿子はそれまで専業主婦として
一家の「マネージャー」として見事に役割を果たしていた。
だが、そこで自らの主体性が封じ込まれたことによって、
ついに離婚という形でそれを発揮させるのである。


陽介と木綿子の離婚後の水野家でのハルカの役割とは、
結局はそれまでの木綿子の役割の代理であったといえる。
ただし、陽介とハルカの関係は
それまでの木綿子との関係とは少し異なる。
陽介は娘に対する愛情はあるから、主従関係ではないのである。
ここに、両者の関係に主観的に幸せな関係が生まれる。
しかし、構造的には陽介がハルカに
イリイチがいうような「シャドウ・ワーク」を依存し、
またハルカも「家族のレストラン」に挫折した陽介を支えるという
共依存関係が生まれ、そして関係性が閉鎖的になるのである。


一方で、離婚後の木綿子は
ただ単に「男」並みに働くことに帰結したわけではなかった。
離婚後の木綿子の生活は仕事一筋であり、
結局は、専業主婦と同じ男性的企業社会の下で
「男」並みに働くことに帰結されてしまいかねない。
しかし、そこで青木健二と出会い同棲する関係になることで、
互いの「個」を尊重する関係性を構築していた。
ハルカはその2人のいる部屋にやってきて共同生活を始めるが、
アスカの経済的自立、
そして木綿子―健二の標準的でない家庭像を目の当たりにし、
彼女にとってのアイデンティティの危機が訪れるのである。


ハルカはその中で経済的自立を果たしていく結果、
自らの「個」の尊厳を見出すが、
そのことでそれまで対抗的だった木綿子に対し、
次第に共感的になっていく。
一方で、陽介との共依存的な関係性に疑問を持つのである。
「お父さんは逃げている」と陽一に非難するのも、
その結果であるということができる。


やがて、ハルカは故郷の湯布院に戻り、観光協会で再就職をした。
その頃、幼馴染である正巳と結婚前提の交際をし始める。
ただし、正巳との関係性は閉鎖的なものだった。
ハルカにとって憧れは自分が「お嫁さん」になることだった。
だが、そのジェンダー意識が正巳への抑圧的な態度となり、
正巳は期待される「男らしさ」、「夫らしさ」に
押しつぶされ、結納当日の逃亡へとつながるのである。
この経験が「お嫁さん」への憧れにおける「敗北」である。


一方で対照的なのが、アスカである。
アスカは「できちゃった結婚」をし子どもを産んだ。
だが、この子どもの存在は生殖家族への外圧である。
それまで家族から距離を置いてきたアスカにとって、
「家族のレストラン」の再起への大きなきっかけとなる。


同じころ、ハルカは猿丸と出会っていた。
というか、猿丸とは至るところで出会っていたが、
その存在は大きなものではなかった。
ただ、「お嫁さん」への憧れの「敗北」と同時に、
湯布院の地域住民との繋がりやアスカの出産といった
ハルカの親密な関係性の意識の変容がきっかけとなり、
猿丸がハルカ自身の存在を確かめる重要な他者となっていく。


猿丸とは、両親から捨てられ家族とは無縁な存在だった。
およそ、家族を夢見ていたハルカにとって、
一家が由緒ある旅館である正巳と違い、
猿丸は同一化できない存在である。
しかし、それが猿丸との距離感の意識につながり、
猿丸の人生観に共感的になり、やがて2人は結婚に至る。
また、この親密性への内なる転換こそ、
ハルカにとっての「家族のレストラン」の再建になる。


最後に、木綿子と陽介の関係についてである。
木綿子は体調を崩して湯布院へ帰ってきたが、
健二も木綿子を追って湯布院までやってきた。
この時、陽介は再婚によって「家族のレストラン」を
再建する夢をあきらめる。
そして、陽介の後押しによって、
異動になる健二を追ってロンドンへ旅立つ。
しかし、その別れが2人の関係の崩壊を意味したわけではなかった。
ハルカはレストランの開店1周年を記念し
アスカと木綿子をレストランへ呼び4人で共通の食卓を囲むが、
2人の離婚以前では会話がはずまなかった食卓も、
この頃の方がずっと親密なコミュニケーションが成り立つ。
家族とは役割関係によって拘束されるものに限らない。
離れてても何があってもつながっている、
そういう関係こそ家族なのだということを認識した時、
木綿子と陽介にとっての「家族のレストラン」は再建される。


またそこで注目すべきセリフもある。
木綿子をロンドンへ送り出すときの陽介の発言である。
「俺はもう俺だけであのレストランをやっていける。
あの頃とは違う。誰も君を必要としていない。」
この発言は表面的に読めば、木綿子を突き放すような内容である。
しかし、俺だけでレストランをやっていけるということも、
一人でレストランを経営していくというわけではない。
むしろそういきがっていたのは、「あの頃」の陽介である。
妻である木綿子の支えなしにやれなかった「あの頃」の自分と違い
今の自分は木綿子の自由を拘束することはない。
今の自分は地域のいろんな人の支えがあって
レストランを経営することができている。
だからこそ、木綿子を拘束する必要はなく尊重する、
ということが発言の真意であると考えることができる。
木綿子のように、あるいは「きみはペット」のスミレのように、
女性が企業社会の中で生きていくのは、
男性性の鎧をかぶれば可能である。
しかし、脱サラをして男性的企業社会の外部で生きていくことは
男性にとっては難しいことである。
たとえ「主婦化」したとしても、
地域のネットワークが十分にない中で生き抜くには困難を伴う。
だがそれでも、陽介は地域にネットワークを築いていくことで
家族の関係性は次第に開放的なものとなっていき、
「家族のレストラン」も
「ゆうこ」から「風のレストラン」への変容が実現するのである。


さて、水野家の家族の二層性に立ち戻ったとき、
物語のスポットとして、家族の性格が
まず木綿子と陽介が主体の生殖家族に当たり、
次にハルカとアスカにとっての定位家族にそれが移り、
そして4人それぞれの生殖家族へと変化する様子がうかがえる。
物語の発端である生殖家族、つまり木綿子と陽介の関係性は
できちゃった結婚」をきっかけとし、
陽介は外で商社マンとして、木綿子は専業主婦として
性別役割分業が確立されていく。
ハルカとアスカにとっての定位家族としての水野家は、
そこから「家族のレストラン」構想へと至り、
そして離婚、父子家庭へと至り、
まさにしがらみとしての家族の側面が露わとなっていく。
その後、4人それぞれが自らの生殖家族へと移行するが、
それはそれぞれの「個」が尊重されたものだった。
またその中で、しがらみだった4人の家族も、
「風のレストラン」として「家族のレストラン」が再建され
絆としての家族へと変化していくのである。
昨年映画化もされた瀬尾まいこの『幸福な食卓』でも、
離婚という段階にまでは至っていないし、
最終的に散り散りになった一家は再び結束するものの、
同様の問題意識として背景に存在する新しい視点である。


ただし、その絆としての家族が、
今度はハルカとアスカの子どもたちにとって
どういう意味付けがなされるかについては
本作では描かれていない。
そこが非常に残念なところであることは忘れてはならない。
しかし、それでも離婚という家族にとっての不幸が
必ずしも家族の解体へと向かわず、
それがそれまでの家族のさまざまな矛盾を浮き彫りにし、
家族の新しい関係性への転換の始まりとなるということが
作品中で一貫したテーマであり、その点を提示できたことで、
風のハルカ」が画期的であるということができるのである。

マイ☆ボス マイ☆ヒーロー

マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」は
2006年の7月〜9月に日本テレビ系列土曜21時台に放映された。
同時間帯は続く「エンタの神様」の影響もあり、
特に若い世代をターゲットにしたドラマが制作される傾向がある。
たとえば、「1ポンドの神様」の亀梨和也のように
ジャニーズ系の役者を主役に抜擢することも多いし、
またテーマも学園ものが多くみられる。
本作品も主演に長瀬智也、ヒロインに新垣結衣を据え、
また舞台も高校であるなど、
ターゲットとして中高生をはじめとした若年層を
かなり意識していたものと思われる。


本作は、韓国の映画「頭師父一體」を原作とするものであるが
そのストーリー展開は、大森らしく、
まったく異なるものであるといえる。
両作品では「学校を取り戻す」ということが
ストーリーの核となっていくわけだが、
原作が荒れ果てた学校の根源にある悪徳校長と闘っていくのに対し
本作品ではそんな描写が一切ない。
「学校を取り戻す」といっても
アクション映画である原作が暴力シーンを多く用いるのに対し、
本作品では学級委員として説得をしていくシーンが多い。
前者がまさに男たる男としてのアクションの作品なのであれば、
後者は説得というコミュニケーションを通して描き、
青春や恋愛といったテーマで広く受け入れられやすい作品である。


さて、物語の舞台はヤクザと高校である。
ヤクザの若頭である榊真喜男(長瀬)はバカである。
計算もできなければ90秒以上思考ができない。
しかしそのせいで闇取引に失敗し、
父である組長(市村正親)に激怒される。
そして父は真喜男に高校卒業をしなければ次期組長を指名しない、
弟(黄川田)に継がせると言い渡すのである。


こうして真喜男は高校に年齢を10歳偽り
17歳として高3として編入学するのであるが、
こんなことは現実世界にありえるはずもない。
あまりにも現実とかけ離れたストーリーなのだが、
その虚構性の裏には現実世界に通じるメッセージがもちろんある。


前述のように本作品で主に基軸となる対比構造は
学ぶことを規定するのは家族や友人といった絆か、
それとも進学・企業社会といったキャリアかといったものである。
つまり、ヤクザの若頭が年齢を偽って高校生になる、
という現実にはあり得ないストーリー構成にあっても、
ヤクザとは真喜男にとってのキャリアなのであり、
また真喜男以外の生徒にとっても
学校の価値とは進学のためのものか、青春を謳歌するものか、
という対比構図が見られる。
真喜男が組長になる(キャリアの)ために
卒業をする、そのために勉強をするという目標を持っていたのが、
物語が展開されるに従って、学ぶことのよろこび、
友達と過ごす学校生活の楽しさを学んでいくにつれ、
真喜男らとその他の生徒の間で、
学校とはどういうものか、学ぶこととは何の意味があるのか、
ということにおいて、対立構造が生まれていくのである。


一方で、榊家の中にも対立構造が生まれていく。
当初の父子関係は、ただの組長と若頭の関係でしかなかった。
母は真喜男のことをとても心配していたが、死んでしまった。
真喜男は父のことをボスとして尊敬し、
父も若頭として真喜男のことを信頼していた。
いわば、当初の父子関係は上司と部下の関係だったのである。
しかし、父は父親として父親らしいことをしてこなかったことを
悔やんでいた。
だからこそ、朝食は家族で食卓を囲もうと提案するのである。
(「風のハルカ」と同じ問題意識が背後にあることがわかる。)
やがて真喜男が学校生活になじみ楽しむようになると、
父と子の間のコミュニケーションも親密になっていく。
それと正反対に弟の美喜男は、
真喜男が暴力では誰にも負けないのに対し
成績ではだれにも負けなかった。
ただ、真喜男が高校で徐々に知識を増やす一方で
暴力性の面で真喜男らしくなくなっていく姿を見て、
自らも組の仕事にかかわるようになっていく。
同じ学ぶことと仕事をすることの文脈においても、
真喜男がキャリアや組のための意味付けから
喜びや幸せといった方向へシフトしていくのに対し、
自らの教養のために勉強を続けていた美喜男は
組のためを思い仕事や勉強を意味づけるようにシフトしていく。
学ぶことや仕事をすることの意味についても、
真喜男と美喜男にストーリー上の対立性か見られるのである。


さて、高校に無事編入学できた真喜男だったが、
組の若頭でそれまで誰にも暴力で負けなかったにもかかわらず、
人生初めてかつあげに遭ったり、
馬鹿と周囲に言われるなど、プライドはずたずたになっていく。
また、組ではこれまで舎弟から慕われていたリーダーシップも
その自信から学級委員に立候補するものの、
クラスメートは極めて非協力であった。
こうしてそれまでの彼の暴力性やリーダーシップという
アイデンティティは早くも危機を迎えるのである。


彼のアイデンティティの危機はそれだけではなかった。
恋愛に関してもそうである。
それまで彼は「女に関しては百戦錬磨」だった。
しかし、ひかり(新垣)に恋するようになると、
動揺してそれまでの姿勢ではいられなくなった。
たとえば、肝試しで逃げだし「男として最低」と言われたり、
それまで「男は構えてろ、要は余裕だ」と言うほどだった
デートに関しても、
そばにいたい、守ってやりたい、笑顔が見たい、
というような姿勢に変化する。
また、過去のトラウマから暴力が嫌いなひかりに対し、
ひかりの前でチンピラに街で襲われた時にも暴力で抵抗できず、
結局は「やっぱり付き合えない」という結論に至るのである。
まさにそれは、百戦錬磨であった真喜男にとって
すべてが初めての経験であった。


勉強すること、学ぶことについてもそうである。
編入して最初の定期試験は、
テストを盗んだり先生を買収しようとしたりするが失敗する。
結果最下位になり、担任の南(香椎由宇)に
スパルタで補習を受けさせられることになる。
南は真喜男が「鉄仮面」と命名するように
真面目で熱心で感情が希薄なのだが、
その熱心さと感情の希薄さゆえに、
あまりに物分かりの悪い真喜男に対し厳しく接するのである。
その厳しさ、熱心さの中で、
真喜男は勉強から逃げだしたりするなど、
なぜ勉強をしなければならないのかと悩む。


しかしその中にあって、友人関係では桜小路(手越祐也)と、
アグネスプリンの争奪をめぐり意気投合し、
また体育祭では他にひかり、萩原(村川)、奥本(佐藤千亜妃)と
チームを組み勝ったことが転機となって、
次第に仲間とともに学校生活を楽しむことを覚えていく。
やがて真喜男はチンプンカンプンでも知ることの楽しさを知っていく。


こうした真喜男の学ぶことへの姿勢が、
学校の周囲の人物の感情を変化させていく。
クラスメートはほとんど受験一色ムードだった。
体育祭も文化祭も関心なし。
ストレスがたまり乱闘も起きそうになる。
しかし、学級委員としての真喜男は「組のために」、
クラスメートの説得に尽力する。
そして最後にはクラスを一丸としてまとめていくのである。
こうして、彼にとっての学ぶことの上で楽しいことの比重が
高まっていくのである。


彼にとっての学ぶ本来の目的、組を継ぐための卒業の夢は
しかし、乱闘騒ぎに加担したことで潰えてしまう。
敵対する熊田一家が学校に殴りこみに来たとき、
熊田一家はヤクザと何の関係もない学校関係者へも
暴力を振るおうとする。
真喜男は学校を守るため熊田一家と激しい乱闘をする。
しかし結局は警察によって暴動は抑えられ、
真喜男は拘置所に送られ、学校も退学になる。
卒業直前で、彼の夢は断たれるのである。
しかし、それでも彼は組のための卒業ができなかったことに
未練はなかった。
むしろ、仲間と一緒に卒業できなかったことを悔やんだ。
この出来事は彼の夢の「敗北」であったのである。


だが卒業式当日、卒業できない真喜男を桜小路らは学校へ連れ出す。
クラスにとってのマッキーはヤクザの真喜男ではなく
やはり学級委員としてのマッキーであったのである。
真喜男は真の卒業証書は受け取れなかったが、
クラスの「卒業証書」を南から送られたのである。
このことで、結局は家業を継ぐことに成功するのである。
だが、それは真喜男か美喜男かどちらかが継ぐというのではない。
兄弟は性格も長所も全く異なるが、
それを対立として考えるのでなく、
役割分担として、互いがないところを補うように考えを変えた。
当初は、真喜男は一人で組を背負わなければならなかった。
だが、今では信頼する舎弟の存在もあれば、弟の知性もある。
真喜男は孤独なヤクザのリーダーとしての役割から解放され、
精神的中心としてのヒーローに生まれ変わったのである。


本作の最後のシーンで、舎弟のカズ(田中聖)は
「なぜ人は学ぶんでしょうか?」と問いかける。
作品中でその答えは提示されないが、
一連の真喜男を中心としたストーリー展開から考えれば
学校を楽しむこと、学ぶことを楽しむことこそが
人を学ばせるのではないかということである。
作品中でそのキーポイントとなる小道具として、
「アグネスプリン」やひかりの勝負ペンが出てくる。
アグネスプリンは昼休みの限定プリンとして
その争奪戦が一つの学校生活のガス抜きになっているのだが、
プリンを手に入れられるか否かはどうでもいいのである。
その争奪戦を楽しむということこそが重要である。
またひかりの勝負ペンについても、
それは真喜男にとって恋する存在のひかりのものであるからこそ
意味のあるものなのである。


キャリアのために学ぶこととは、
未来の不安のためにこそ学ぶのである。
たとえば、この大学に入らなければいい就職先はない、など。
だが、はたしてその大学に入ったからといって
いい就職先にありつけるかというとそうでもない。
一方で、今を楽しむこととは希望あってのことである。
これは第6話での真喜男のセリフである。
「大人になったらわかるけどよ、(と思うけど)
大人になったらクラスメートなんていねーぞ。
だましだまされ駆け引きして、しゃらくせーしがらみばっかだよ。
でも俺たちはさ、クラスメートだよ。
一緒に青春を楽しむ、どうでもいい仲間だよ。
そんな俺たちがさ、そんな自由な俺たちが、
せっかくの今を楽しまなきゃどうすんだよ、コノヤロー。
みんなで楽しもうよ。みんなでがんばろうよ。
俺たちはさ、顔も性格も成績も全然違うけど、
みんな未来が見えなくてもがいても同じ仲間なんだよ。」
学ぶことについての不安と未来についての大森の問題意識は、
今クールの「エジソンの母」に引き継がれている。


だが、本作の意義深いところは、
結末としてみんなクラスが仲良くなった、めでたしめでたし、
で終わるわけではないということである。
クラスでの行事、クラスメートは一つの通過点でしかない。
高校という3年間は誰しも一度しか許されていない。
高校を卒業すればまた違う世界がそれぞれに待っている。
それを象徴するのが、最後のひかりの真喜男への告白である。
「いつか私がもっと大人になったらまたデートできるかな」と
ひかりが真喜男に言うと、真喜男は
「梅村さんが大人になったらいい女になりすぎて
僕とつりあいそうもありません。
でも、でもいつかきっと。
でもそろそろ、桜小路の気持ちもわかってくださいよ。」と返す。
桜小路がひかりのことを好きだったことを
真喜男が気づいていたからこそのセリフだったかもしれないが、
このセリフの意味することは、
二人のその後の世界は違う中で、現実を見つめ、
またそこから希望を見出さなければならない、ということの
メッセージ性をくみ取ることができるのではないか。


これは「プロポーズ大作戦」のタイムスリップとも重なるのだが、
青春や青い恋愛といったものを想像するに、
私たちはそれを永遠化しがちなのである。
そしてだからこそ、「プロポーズ大作戦」の健は
後悔の要因を一つ一つつぶし現実を思い通りに変えるため、
タイムスリップをしたのであった。
だが、「プロポーズ大作戦」の妖精の言葉にあるように、
過去を変えようという努力よりも
今未来に向かって自分が変えていく努力の方が大事なのである。
マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」における、希望の重要性も
結局はその「プロポーズ大作戦」と同じように、
今、未来に向って希望を持つことの重要性を意味するのである。
その中で、「マイ☆ボス〜」の描き出した独自性とは、
関係性とは永遠ではないということ、
関係性そのものも自ら希望を持って築き上げることができる、
ということなのである。
だからこそ、幼馴染であったひかりと桜小路の関係性に
光を与える可能性を残して結末を迎えたともいえる。


そして、本作においてヒーローとは
真喜男だけを示すのではないのである。
桜小路であっても、ヒーローになりうるわけである。
今一度議論を学ぶこととは何かということに戻せば、
これをヒーローになるにはどうすればいいかということにも
読み替えることができるのである。
いわば、私たちはヒーローになるために、
体を鍛え、頭を鍛え、対人能力を鍛えるのである。
だが、がむしゃらにがんばったところで、
必ずしもヒーローになれるとは限らない。
だからこそ、日常の楽しさから、誰かのために、何かのために、
頑張るという希望を見出していく必要がある。
それこそが、ヒーローになるということなのである。
そして、それは誰でもできることなのである。
本作はこのように虚構性にドラマの結末を終始させなかった、
自らにできることは何か、ということを
視聴者側に訴えかけたからこそ、
画期的であるということができるのである。

*1: wikipediaきみはペット」(2008年1月15日アクセス)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AF%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88 参照。

*2: ただし、ドイツに行かなかったことでモモはどうなったかについて、本作では描かれておらず、その点が本作の描写で不十分な点であると認めることができる。

テレビドラマにおける「親密性の変容」と大森美香作品

昨年度の連ドラで個人的に特に印象に残っているものは、
プロポーズ大作戦」である。
今作は、主人公の健(山下智久)が
これまでずっと好きだった幼馴染の礼(長澤まさみ)の結婚を阻止すべく
過去にタイムスリップするというストーリーだが、
今作の面白いところは、
何といっても、その「タイムスリップ」である。
健の後悔を見かねた妖精(三上博史)が「タイムスリップ」をさせてあげるのだが、
ストーリーが進んでいくにつれ、
結局過去を変えてもどうしようもなく、
現在で自分がいかに前向きに物事に取り組むのかが重要であるということが、
今作の主題であったということができる。


私たちにとってこの「タイムスリップ」などは
虚構以外の何物でもないものなのだが、
それを虚構のまま描くのでなく、
つまりそのストーリーが現実性を全く帯びない作品として描かれるのでなく、
どこか私たちの心に響くものがあるように演出されているところに
作品中におけるその意義があるといえる。


同じく、昨年度はそうした虚構性を帯びた舞台でストーリーが展開される
ドラマが多かったことが特徴であるといえる。
たとえば「花より男子」は、貧乏なつくし(井上真央)が
道明寺財閥の跡取り息子の司(松本潤)と恋に落ちるという、
まぁ全くあり得ないわけではないだろうけれども、
しかし私たちにとってはほぼ起こりえない物語であった。
また、「パパとムスメの7日間」も、主人公の小梅(新垣結衣)とその父(舘ひろし)が
事故をきっかけに体はそのままに人格がまったく入れ替わり、
娘の生活を父が、父の生活を娘が経験し、互いの矛盾点を浮き彫りにするストーリーであった。
そして、「花ざかりの君たちへ」も、高校陸上アスリートの泉(小栗旬)にあこがれ、
彼に会いたい一心で女子である瑞稀(堀北真希)が男装し男子高に入学するというストーリーだった。


ここにあげた作品は、どれも高視聴率を残しているが、
やはりそれは、ただ単に虚構の物語としてストーリーを完結させなかったことに
要因をみることができるだろう。
そして、虚構性の向こう側に、
花男プロポーズ大作戦であれば恋愛・結婚、
パパムスであれば親子関係、
花君であれば、恋愛関係や友情関係が真のテーマであり、
そこでは総じて、他の何物でもなく感情によって規定される、
「純粋な関係性」にまつわるメッセージ性が含まれているのである。
つまり、どんな虚構性を帯びた作品であれ、
結局描かれているのは、私たちとなんら遠くない日常的なキャラクターの人生である。


しかし、私がこれら作品を見ていて個人的に感じることは、
ストーリーの結末として、
それまでの主人公やその取り巻きのアイデンティティ・クライシスが終わり、
結局キャラクター達は今後どうアイデンティティを再構築していくのか、
お互いの関係性を再構築していくのかという点が
ほとんど捨象されてしまっていて物足りないという点である。
若干ネタばれになってしまうが、
花男であれば、司が記憶を回復し自分が愛していた相手が
海(戸田恵梨香)ではなくつくしであったことを思い出したことで、とりあえず完結しているし、
(ただしこの後本作の映画化が予定されており、ここで完全に完結したわけではない)
花君も泉が飛んで瑞稀が退学しアメリカに帰り、
今後の恋愛展開を匂わすような結末でストーリーをしめている。
パパムスも互いの人格が元通り戻り、
互いの立場・気持ちを知り、親子愛・絆が深まったことで終わっている。
これらはすべて、アイデンティティ・クライシスが終わり脱構築が完了すると、
結果的に、また以前の、恋愛や親子といった、
それまでの社会的関係に規定される関係性へ収斂していってしまう。
ベタはベタでいいかもしれないが、どれもこれも同じではおもしろくない。


ただ、その中で少し違った趣向をもったストーリー展開がなされるのが、
大森美香が脚本を担当する作品である。
大森美香は、「カバチタレ!」「ランチの女王」「きみはペット
不機嫌なジーン」「風のハルカ」「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」といった代表作があり、
「不機嫌な〜」では向田邦子賞も受賞している。
大森の作品が他の脚本家の作品とどこが違うのかといえば、
キャラクター達の再構築の過程にあるといえる。
従来型のストーリーであれば、やはり恋愛や親子関係といった、
現在支配的な社会秩序に収斂していたものを、
そこに批判的な視点を介入させ、その対案を提示する点にあるといえる。
不機嫌なジーン」も、月9ではそれまでタブーとされてきた、
主役の二人が結ばれない、という結末にも挑戦している。
これは本人がインタビューの中で「意外性のある脚本家でいたい」と言っている点からも
その既存の体制への批判的な視線が作品に生かされていることが垣間見られる。


大森作品で特に目立つのが、そのストーリーに
「企業社会/仕事/お金」―「家族/恋愛」―「学校/学歴/キャリア」の三要素が
どこかに散らばらされている点であり、
そして斬新なテーマでそのトライアングルの再構築に取り組んでいる点が注目される。
先ほど、どんな虚構性の強い作品であろうとも
そこに視聴者が日常性を感じさせるものがなければ視聴率は高くない点を指摘したが、
彼女の場合であれば、その日常性にこのトライアングルを当て、
虚構性に、そのテーマの斬新性をあてはめていると考えることができるだろう。


そして注目すべき点は、ストーリーのどこかに、
主人公の「敗北」の経験が記述されている点である。
つまり、主人公が敗北を喫すれば、それまでの立場・役割に固執せず
新たな立場・役割でアイデンティティを再構築することが求められるのである。
たとえば、「きみはペット」であればスミレ(小雪)の蓮實(田辺誠一)との失恋であるし、
不機嫌なジーン」であれば仁子(竹内結子)の健一(黄川田将也)との失恋であり、
風のハルカ」であればハルカ(村川絵梨)の正巳(黄川田)との婚約の破談であり、
そして「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」であれば
真喜男(長瀬智也)が逮捕されたことで卒業が取り消され退学処分になったことだった。


大森作品の特徴は、その「敗北」を喫するイベントにあるといえる。
その点で、「敗北」を喫せずだらだらとそれまでの関係性を維持・復活させる
他の脚本家作品とは違う点である。
「敗北」の後、新たに構築される関係性こそが、
社会的関係でなく感情のみによって規定される、ギデンズのいう「純粋な関係性」である。
大森作品では、そうして恋愛模様や家族模様、学校のクラス模様において
ベタにアイデンティティの再構築が描かれない、
キャラクター達の感情そのものの行方が描かれるからこそ、おもしろいのである。

大森美香のジェンダー観

以上の三作品を通してみたとき、大森作品の展開において
いくつかの事件が作品中で起こることによって、
登場人物たちの関係性が変容していくことが描かれていることがわかる。


まず作品の核になっているのは、「秘密」とそこからの解放である。
たとえば、「きみはペット」においては
自分が素直になれないことで男をペットにする、ということだった。
風のハルカ」においては、
両親の離婚という、家庭崩壊だった。
マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」においては、
本当はヤクザであること、年齢を偽っていることだった。
秘密とは、関係性の面では閉鎖的なものである。
秘密とは、他の人に言えない何かであり、
何かの問題から抑圧されていることであるといえる。
その秘密からの解放を通し、
主人公たちが何から抑圧されているのか、ということが
次第に明らかになっていくのである。


登場人物たちの関係性が親密になっていくのも、
もちろん単線的な物語の展開がなされるわけではない。
主人公をはじめ登場人物は、さまざまな壁にぶつかりながら
前に進んでいくわけなのだが、
もちろん、壁にぶつかったときには考えがネガティブになる。
嗜癖はその逃避行動の象徴であるといえる。
大森作品においては、
きみはペット」であれば、喫煙、泥酔するほどの飲酒、
風のハルカ」であれば、親子関係の共依存アダルト・チルドレン
マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」であれば、喫煙、ギャンブルであった。


ギデンズ『親密性の変容』によれば、
嗜癖性は「男性性の苦難」において大きな役割を果たすとする*1
男性性とは「我慢」が不可欠なものである。
そして、そのゾンビになる中で、人々は狂い始め、
嗜癖行動へと逃避するのである。
つまり、ここから大森の描く「秘密」とは男性性であると
考えることができるのである。
つまり、そこから解放させるには、
「男女の対等な立場を認め、男性性と経済的道具性のつながりを
解消していかなければならない」*2のである。
つまり、それは男性性に満たされた人が逃避してきた
「自己介入」を始めるということによって実現する。
とりわけ、「男性が女性にたいして密かに感情的に依存していることを認識」*3することなのである。


ロマンティックラブのような関係性は、
これまで男女の支配関係を構築してきた。
特に、女性にとってのロマンスとは、
「望んでも手に入れることができない父親を求めての」*4探求であり、
愛情への強い憧れは、父親との関係性の中で
構築されていくものなのである。
特に「風のハルカ」はこの点を忠実に描いていた。
ハルカが描いていた「お嫁さん」への憧れとは、
まさに家族を捨てた母親への敵意を源にするものであったのである。
また、「きみはペット」のスミレや「マイ☆ボス〜」の真喜男は
作品中で男性性を象徴するキャラクターであり、
スミレは東大卒エリートのキャリアウーマンというように、
「仕事」という男性性に支配されたキャラクター、
真喜男は「男は構えてろ」の台詞に象徴されるように、
まさに暴力性を通して男性性の象徴として描かれていたわけである。


大森作品は、主人公たちがそうした内なるジェンダー意識と葛藤を繰り広げていく。
特に、それまで当たり前としていたアイデンティティ
何らかのきっかけをもとに危機を迎えることによって、
主人公たちは、その内なる意識の矛盾に気づいていくのである。
きみはペット」であれば、左遷であったし、
風のハルカ」であれば、アスカのために働くという意義を失ったことだったし、
「マイ☆ボス〜」であれば、学級委員になったものの威厳を喪失したことだった。
しかし、関係性の中でそうした経験をすることは、
関係性の中で何がいけなかったかを顧みるきっかけとなるのであり、
新しい関係性の構築のきっかけにもなるのである。


特に、その顧みる行為の上では自己の鏡となる他者の存在が重要となる。
ジェンダー概念でいえば、同性・異性それぞれにおいて
主人公の変容に同調的なキャラクター、対立的なキャラクター
それぞれが必要となってくるのである。
そこで、大森作品の中で考えるにあたり、これらキャラクターを
1. 主人公に同調的な同性
2. 主人公に対立的な同性
3. 主人公に同調的な異性
4. 主人公に対立的な異性
以上のように整理してみてみることとする。
すると、「きみはペット」であれば、
1:栗本(乙葉) 2:ユリ(鈴木紗理奈) 3:モモ 4:蓮實
風のハルカ」であれば、
1:木綿子 2:アスカ 3:猿丸 4:正巳・陽介
マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」であれば、
1:桜小路 2:美喜男 3:ひかり 4:南
と以上のように、各作品においてきちんと整理されているのである。


とはいえ、関係性の変容は単線ではない。
大森作品の注目すべき点として
旧来のアイデンティティの敗北が描かれているのである。
きみはペット」であれば、蓮實との失恋とモモをペットとする関係の終わり、
風のハルカ」であれば、正巳との破談、
「マイ☆ボス〜」であれば、真喜男の逮捕と退学処分だった。
一方でそれは、新しい関係性を実らせる直接のきっかけにもなるのである。
きみはペット」であれば、モモとの新しい共棲生活の始まり、
風のハルカ」であれば、「風のレストラン」と猿丸との出会い、
「マイ☆ボス〜」であれば、クラスからの卒業証書授与であったのである。


純粋な関係性は、自己の不断な再帰的点検によって可能となる。
だが、そこでは他者という存在が不可欠なのであり、
自己と他者の間には、信頼関係が必要となる。
その信頼関係は、計算不可能な生活経験によってこそ生まれる。
相手に対し自分を開示すること、
すなわち秘密から自らを解放させることによってこそ、
その信頼関係は意味をなすのである。
そして、大森が描きだすその実践可能性は、
関係性の変容において気付かれていく、
関係性のありがたさ、つまり「今を楽しむ」ということであるといえるだろう。


ただし、ただ単に「今を楽しむ」こととは、
享楽的に人生を過ごしていくこととは異なるのである。
この点の区別を映し出していくのは、
視聴者側の理解が十分でない以上、難しいことだろう。
大森作品の特徴としてよく言われることは、
軽快な作品展開と、そのコメディー性である。
しかし、そのコメディー性も、
なかなか理解されにくい大森の世界観を映し出すため、
いわば視聴者を大森ワールドに引き込むための
ひとつの戦略であるとも考えられるだろう。
そのコメディ性の裏にはどんなメッセージ性が
その作品の核としてあるのか、
そう考えていくと、大森作品の本当の意義について
見出していくことができるのではないか。
今クールで「エジソンの母」が放映開始されたが、
こういった視点で本作品を見てみると、おもしろいのではないだろうか。


以上。

*1:ギデンズ(1995)『親密性の変容』p.223

*2:ギデンズ(1995)『親密性の変容』p.231

*3:ギデンズ1995)『親密性の変容』p.232

*4:ギデンズ(1995)『親密性の変容』p.259