社会的不安の根源は何か

社会的不安の表面化としての格差論争

 世間では、格差社会論争がいまだに続いているが,
その格差社会論争の火付け役となった一人が、三浦展である。
著書『下流社会』で彼は、
1955年以降の一倍総中流化現象の「1955年体制」に対し、
2005年以降の階層化・下流化現象を「2005年体制」と指摘した。
その転換期が明確に2005年であったかどうかは諸説あるが、
ここ数年で私たちの生活環境は明らかに転換した。
その大きな要因が経済のグローバリゼーションであるし、
その一方で旧来の文化が失われていったことにもあったわけである。
三浦展(2005)『下流社会一新たな階層集団の出現』光文社新書。)
 近年、よく耳にする言葉が「若者の右傾化」である。
たとえば
ネット右翼」や「小泉型ポピュリズム」と呼ばれるものに特徴されるものは、
それが自文化愛と同時に
排他性を秘めたものであるということである。
たとえば、中国や韓国に対して
ネット右翼」たちは非難の視線を強く送る。
また、それだけではなく、「ジェンダーフリー」論者や、
朝日新聞に代表される「サヨク」も彼らの非難の対象となった。


しかし、注意しなければならないのは、その非難の内容ではない。
そもそも、彼らが非難をするのも、主張的な対立があってのことではない。
たとえば、朝日新聞を批判するときに
朝日新聞のこういう主張がいけない」という批判がなされるわけではない。
朝日新聞の建前論理に対し、実体性にズレがあり、そこを突くのである。
もっとも典型的な例が、ニート論争である。
二ート(NEET)とは、”Not in Education,Employment or Training”
(15-34歳で、就業もしていなければ、
教育も受けておらず、また求職活動もしていない若年層)
と定義される存在である。しかし、ニートに対する批判はもっぱら、
「自立していない若者」や「自分勝手な若者」といったフリーターや引きこもりと
混乱した語句の使用がなされている。
また自称・ニートの人がテレビに登場し
「働いたら負けかなと思っている」と発言をすると、
その発言をめぐり論争となり、
ついにはその発言者を2ちゃんねらー
英雄化した事実も存在するのである。
繰り返しになるが、
ニートという実態がここで問題とされているのではない。
ニートをめぐるコミュニケーションの形式こそが、
議論の対象とされているのだ。

社会の分極化と社会的不安の増長

なぜこのようなアイロニカルな議論しかなされないのか。
それは、それまで社会を覆っていた
価値規範、イデオロギーが現在存在しないからである。
ダニエル・ベルが豊かな社会の到来により
イデオロギーが終焉すると述べたようにである。
東浩紀はこのイデオロギーの終焉した状態で、
データベース的な記号消費が行われるようになるとする。
データベース的な記号消費の典型例が、「萌え文化」である。
萌えにはそれまでの恋愛イデオロギーのような汎用性が存在しない。
一人ひとりは「萌え」るが、その「萌え」における感動の経験が
他者に伝わりようもない感動なのである。
こうして、社会は分極化されていくのである。
東浩紀(2001)『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』講談社現代新書。)


社会が分極化されたとき、
それまで社会規範が担っていた治安の形態も変化する。
フーコーが近代の特徴を規律訓練に求めたように、
たとえば学校という場は規律訓練、
言い換えれば中心からの監視、権力構造によって成り立っていた。
教師と生徒の関係はまさにその典型である。
しかし、規律というものがそもそも汎用性を失った以上、
これは有効に働かなくなるのである。
そこで、東が『情報自由論』で指摘するのは、
規律訓練に変わる環境管理への移行である。
監視社会化もこの一環であると考えられる。
これまで子どもの居場所は親が把握できていたし、
できていなくても地域や社会が守ってくれていたので
子どもが犯罪に巻き込まれることなどごくまれだった。
ところが、この治安構造が崩壊したとき、
子どもを守る存在がいなくなり親に不安が募るようになった結果、
携帯電話のGPS機能で把握をしようとするのである。
東浩紀(2003)「情報自由論−データの権力、暗号の倫理」『中央公論』(第1回:2002年7月号〜第14回:2003年10月号)。)


だが、いつでもどこでも
機械的に監視されるというのはよいことなのだろうか。
たとえば、私たちが監視されている身近なケースとして、
ケータイのメール機能を挙げることができる。
辻大介は「電話は話したくなければ切ってしまえるので気楽だ」というように
テレビチャンネルのフリッピング行動のような対人関係が見られ、
これを「フリッパー」志向と称す。
その一方で辻は、
同時にケータイに着信・メールがないと孤独感が増すとする若者が多く、
その解消法としてメールをすることを選び、
その絶え間ないつながりによって孤独や不安が絶え間なく循環されていると指摘する。
辻大介(2000)「若者のコミュニケーションの変容と新しいメディア」船津衛・廣井脩・橋元良明編『子ども・青少年とコミュニケーション』北樹出版 p.21-25参照。)


アンソニー・ギデンズはこうした関係性を「純粋な関係性」と呼んだ。
これは外的基準に規定されず関係性そのものによって規定される関係のことである。
たとえば、一昔前までの恋愛には、
純粋な恋愛感情のほかに家族関係やジェンダー関係が強く作用していた。
だからこそ、お見合い結婚が頻繁に見られたのである。
しかし、家族関係やジェンダー関係といった外的基準が希薄化してくると
お見合い結婚は下火になり、恋愛結婚が主流となるのである。
アンソニー・ギデンズ(1995)『親密性の変容―近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(松尾精文・松川昭子訳、而立書房)。)


だが、そこでは常に自己を点検していることが求められる。
恋愛のケースであれば、常に自分を磨いていなければ、
よっぽどの美男美女でなければ、恋愛市場では生き残れない。
というのが事実でないとしても、そういうプレッシャーがかかることこそが、
ここで問題なのである。
むしろ、自己責任や自己宿命を追い求めず、
そこから「お祭り」のように逃避することこそが、
鈴木謙介が言うような「カーニバル化」現象なのである。
冒頭の事例である「右傾化」現象も、
実はたとえば雇用問題や政治問題といった実態から目を背け、
「お祭り」気分でその問題をやり過ごそうとしているに過ぎないのだ。
鈴木謙介(2005)『カーニバル化する社会』講談社現代新書。)


しかし、環境管理化が進み監視社会化が進むと、
人間関係は機械的になってくる。
たとえば、生身の人間関係ではありえなかったように
携帯電話という機械を通じて私たちは、
人間関係を計算できるものと考えるようにになってしまった。
人間関係を切り捨てるだけならまだいいのかもしれない。
切り捨てられるリスクでさえも、計算によって回避しようとしていくようになる。
それこそが、最近流行の「空気を読む」ということなのではないだろうか。
土井隆義が『友だち地獄』で述べるところによれば、
「あるがままの自分」を目指そうとするゆえに、
自分自身はあるがままではなくなっていくのである。
土井隆義『友だち地獄-「空気を読む」世代のサバイバル』(2008)ちくま新書。)

コミュニティの力が社会的不安を緩和させる

こうした事態だからこそ、私たちは今、
人間関係や社会に計算不可能性を復活させる必要があるのだといえる。
その手法こそが、
コミュニティの力による社会的連帯によるリスク管理なのである。
私たちはこれまで、55年体制
という安定した社会規範の下で生きてきた。
それが崩壊した以上、もう一度新たに社会に公共性を取り戻し、
また非実体化した地域集団を実体化させていかなければならないのである。
その中にあって私たちは自身は、
まず汎用性があるような人間となり、
また日常生活の中に一時の楽しさや現状の利便性にとどまらない
「かけがえのない個人の感情のベースキャンプとなる郷土」を
取り戻していかなければならないのである。
その認識がかけていることこそが、
あらゆる社会的不安の根源なのではないだろうか。