「スチュワーデス物語」と第2代「アテンションプリーズ」の違い

来週にハワイに行くということで、
アテンションプリーズ・ホノルル編のDVDを見て
今その予習をしているわけである


そういえば、CBCテレビで、今
スチュワーデス物語」の再放送をしていて、ついつい見てしまった。
この作品の放映も、私の生まれる前のものなので、
当然見たことはなく。
ただ、アイドル時代の堀ちえみの主演作品ということだけは知っていて、
なっちゃん」のCMでしばらく前に堀北真希堀ちえみが共演して
そこで話題になったこともあった。
その、「スチュワーデス物語」である。


当たり前なのだが、堀ちえみはアイドルなので、
当然演技力は期待できるものではないのだが、
スチュワーデス物語」での演技は、はっきりいって
現代的視点によれば、見るに堪えないものだった。
なにせ、当時もその「大根役者」ぶりが話題になったようで、
しかし、その「大根役者」ぶりが、
一人前のスチュワーデスに成長していく姿を投影しているとして、
逆に功を奏した、とも言われている。


そのスチュワーデス物語から、新生アテンションプリーズ放映まで、
20年強の時間が経ったわけである。
共通のスポンサーである日本航空はその間、
御巣鷹山事故も経験し、JASとの合併も経験、
ワンワールド・アライアンスへの参加も経験した。
一方で、航空業界では、男女平等参画の進展により、
スチュワーデスからキャビンアテンダントという呼び名に変化した。
相当に変化のあった、20年強だったわけである。
それだけにあって、両作品の間の変化というものが激しい。


特に私が注目したのは、
両作品でのサービスの映され方の変化である。
たまたま私が見たスチュワーデス物語の放映回では、
乗客の一人が機内で心筋梗塞になり、
バンクーバーから成田までの途上で、
急遽、乗客を病院に送るため、アンカレッジによることになったという設定。
アテンションプリーズでもそういうトラブルは
いくつも設定されていたのだが、
そのトラブル時の対応というものが大きく違う。
アンカレッジによることになった際、
乗客の中から、多くのクレームがスチュワーデスに寄せられるのだが、
そこで、スチュワーデスがクレームに言い返しているのである。
こんなことは、アテンションプリーズではありえない。
例えば美咲洋子(上戸彩)がそんなことをした試しには、
三神(真矢みき)が飛んでくるところである。
ところが、松本(堀ちえみ)がそのようなことをしても、
村沢(風間杜夫)は怒らないないどころか、
ジュースを配って、さっさとそのクレームの火を消させようとする。


まぁ、もちろん現実のJAL便でそのようなクレーム対応が行われていたとは
思えないわけだが、
スポンサーである日本航空にとってみて、
そういう映し出され方をしたとして、
自社の運営への影響の出方というのが異なるというのが大きくあるだろう。
そもそも、当時の日本航空は、民営化以前である。
国のものであれば、イメージ戦略などするまでもなく、信頼性は自ずとある。
もっとも、「沈まぬ太陽」を読めばわかると思うが、
日本航空はトラブルが相次いでいた。
その中で、イメージへの影響というものが
そもそもないわけではなかったろうが、
しかし、日本航空側としてそういうことに対して
シビアにはなっていなかったということだろう。
今では、日本航空も競争の下に放り出され、
ライバル・全日空とだけではなく、
スカイマーク等の国内の格安航空会社、
国際線では、他国の会社との競争をし、
生き残っていかなければならない。
その中で、サービスの映し方にもシビアになったというのがあるだろう。
いや、もっとも、社会の変化として、
現場の姿をよりリアルに映し出すことが求められるようになったというのが
もちろんあるのだろうけれども。


他の要因としては、
アイドルの演技の映し出され方も変化しているということもあるだろう。
堀ちえみの演技は、まったくもって下手な演技だった。
けれども、それが視聴者側に映し出されたのも、
「一人前」になるというものが、
割りと直線的だった、そうやって映されていたということが
要因としてあるのではないか。
アテンションプリーズでいえば、
美咲は非常に曲線的に、回り道をしながら、「一人前」になっていく。
一応の結末は、各回に用意されてはいるが、
しかし、それが完成型ではない。


まぁ、ともかくとして、
スチュワーデス、キャビンアテンダントの成長物語にしても、
時代を経るごとに、変化をしていく。
スチュワーデス物語の前で言えば、
先代アテンションプリーズがあったわけだが、
これらを通して、たとえばキャビンアテンダントというものが、
あるいはサービスというものが、
どのように映し出されているのかということを比較してみて行くと、
社会的な変化というものが、その背後に見えてくるのかもしれない。