『ラスト・フレンズ』の瑠美って何のシンボルなんだろう

いまさらだが、『ラスト・フレンズ』の特別編を見た。
この番組も、最初の方は、展開がどうせ読めるだろう、と
正直たかをくくりながら視聴していたのだが、
とんでもない、ストーリーに幅があり、
また何よりも、シェアハウスの5人と宗佑をはじめとして
様々な登場人物の、そのそれぞれの視点から多角的に
この作品を楽しんでみると、
この作品のメッセージが、深く、また幅の広いものであることを、
改めて、感じさせてくれる。
で、思ったのだが、
では、美知留と宗佑の子どもである、瑠美の存在が示すシンボルとは、
この作品にとって何の意味を果たすのだろう。
瑠美は、当然最終回と特別編にしか出てこないのだが、
セリフを発することなく、また彼女の今後について何の示唆もなく、
作品は幕を閉じている。
その、瑠美の視点からこの作品を読み解いてみたとき、
この作品は、どう私の目に映ったのか。


さて、作品の第10話で宗佑は、美知留を半ばレイプのように襲って、
その結果できた子どもが瑠美である。
一方で、宗佑は、美知留を襲った夜、
自らの存在の"Contradiction"に耐え切れず、自ら命を絶つのであるが、
「不幸せ」の意味で同じ土俵に建っていたはずの、美知留と宗佑が、
結果的に、「幸せ」を追い求めていく中で
その"Contradiction"によって、その欺瞞性が明らかとなり、
男でも女でもない「人間として」「友人として」
「家族」の関係である、瑠可やタケルなどの方へ美知留が
宗佑のもとから離れていく。
他方、美知留との距離が遠くなることで
宗佑はこの"Contradiction"の中に閉じ込められ、
命を絶たざるを得なくなるのである。
このように考えれば、瑠美とは、その"Contradiction"から
"Liberation"が果たされた宗佑の生まれ変わりとも、
読み取れなくもないのではないか。


すると、結局最終的にシェアハウスが行き着くところは、
単なる寄せ集めの集合住宅ではなく、それこそ「家族」である。
というのは、瑠美という、無垢な存在がいるからこそ、
彼ら3人はこのシェアハウスから出て行くことができない。
つまり、瑠美によって、この3人の関係性は、可視化されるのである。
言い換えれば、瑠美とは、この3人の関係性の可視的シンボルなのではないか。


こう考えると、子どもとしての存在である瑠美が、
果たして、単なるシンボルとしての扱いだけでよいのかということを
検討しなくてはならなくなる。
確かに、彼/彼女らの生き辛さは、
スケープゴート的存在である宗佑が、瑠美という存在に生まれ変わったことで、
互いの関係性がいつ壊れるかもわからないものから
簡単には壊れない関係性へと移行したことで、解消したかのように見える
しかし、瑠美というシンボルとは不動のものでなく、
まぎれもなく人間という動的な存在だ。
瑠美が宗佑の生まれ変わりなのだとすれば、
それこそ瑠美が新たな"Contradiction"を自己の中に見出すかもしれず、
3人はそのリスクと向き合わなければならない。


作品の最後に、瑠可のナレーションで
「壊れやすいこの幸せを大事にして、いけるところまでいこうと思っています」
と語っているのだが、
では、その「壊れやすい関係」は、それこそ瑠美を幸せにできるのか。
ここに、やはりどうしても最後に腑に落ちない点が残ってしまう。


この、「壊れやすい関係」とは、
家族、夫婦、恋人、このどれかでもない関係であるというが、
結局は、従来のそうした縛り付ける関係性からの"Liberation"が
果たされた関係性であるといえる。
とはいえ、彼らの「宇宙」の中でその"Liberation"が果たされ、
そして、これから各自がどこへ行っても「友達でいよう」と言ったところで、
特に、瑠美の一生が本当に保障されるのか、
現状の子育て制度上で、それこそ不安定である以上、
「壊れやすい関係」がどれだけ壊れないのかということが
今いち、納得がいかない。
瑠美という存在は、単なる"Liberation"のシンボルではなく、
その「壊れやすい関係」の中でたくましく生きなければならない存在だ。
「壊れやすい関係」が本当に壊れにくいのであれば、
この瑠美の成長をこそ、今後注目していかなければいけないのではないか、
と批判的に見れば、そう思えてしまう。
「壊れやすい関係」とは、決してそこでの各自の位置が定まることなく、
その位置を、絶えず探しながら、また確かめながら、成り立つものだ。
言い換えれば、この3人の関係が3人の間で結束が高まったとして、
瑠美によって、その関係性を再帰的に検証しなければならなくなることは
間違いないはずだ。


こうした批判的な観点を通して見てしまうと、
まさしく純粋な関係性としての「壊れやすい関係」が
今の若者たちにとって大事であるとしたところで、
確かに納得はするし、賛同もするのだが、
しかしやはり、そのメッセージ性は、結局のところ、
従来の制度の中に映る美知留の成長物語に留まるものに過ぎない形でしか、
視聴者に届かないのではないか。
この点に、社会的に訴えるメッセージが秘められている番組であっても、
どうしても根本のエンターテイメント性を強く意識させられてしまうのである。