「かる〜いコミュニケーション」の奇妙さとその克服可能性

大森美香論は相変わらず放置したままだが、
とりあえず、久しぶりに連続的に別の内容を投稿してみる。

「かる〜いコミュニケーション」について

コミュニケーションが自己と他者との意思疎通の役割を果たすとすれば、
そこに「軽い」や「重い」などの度量は
存在するのもよく理解できないものだ。
そもそも、何をもって軽いとか重いとかを判断するのか。
しかし、それでもよく私は
「かる〜いコミュニケーションにしてよ」みたいなことを
よく言われるわけである。


そもそも、たとえば「かる〜いコミュニケーション」の意味を
私がよくわからない、理解できないとして、
コミュニケーションが自己と他者の間の意思疎通であるのだとすれば、
他者のために、自己は「かる〜い」とは
いったい何なのかを説明しなければならない。
しかし、私が、つまりここでの他者がそれを理解できないまま
なんとなく、会話が進んでいってしまう、という点に、
実は、私は「かる〜い」の意味が存在しているように思える。

コミュニケーションにおける背景知識の重要性

社会学で会話分析の分野がある。
私はもちろんその分野の専門ではないのだが、
だいたいのこの分野の研究内容は、
会話の背後にある関係性を分析する、というものである。
たとえば、以下のような会話を想定しよう。
これは、ドラマの「アットホーム・ダッド」の第1話で出てくる一シーンである。
 笙子:「ねぇあなた、私あれ忘れてた!」
 優介:「え?」
 笙子:「うっかりだわー、あれよ、あれ!」
 優介:「あ、あれ、あ、そっか!」
 笙子:「私どうしよう、すみません私用事思い出しちゃって。」
はっきり言って、ドラマ本編を見ていなければ、
何の会話をしているか、さっぱりわからない。
ちなみに、この会話の内容というか背景だが、
引っ越してきた山村家の美紀が、隣の杉尾家の優介・笙子夫妻に
引っ越しのあいさつをしているときに、
ちょうどご近所仲間のボスで、若干うざがられている岩崎がそこにやってきて
会話の邪魔をしているシーンである。
杉尾家夫婦は、もとからその地域に住んでいるから岩崎のうざさを知っている。
だから、笙子が「あれを思い出した」という「あれ」とは
別に何のこともない、まったく意味のないものなのであり、
この会話全体を通して、会話から抜け出たいということの意思を
夫婦でキャッチボールしている、というわけである。
と言われても、ドラマの物語展開も知らなければ、
またこのシーンがどのようなシーンかわからなければ、
はっきり言って何の会話をしているかもわからなければ、
そもそも笙子のいう「用事を思い出しちゃって」とは
誰に言っているのかすらもわからないわけである。
このように、その会話だけをたんに聞いているだけではわからない
会話の背後にある関係性を見出すことが、エスノメソドロジーの仕事である。


とはいえ、会話の背後にある関係性を見出すこと、知覚することは、
会話分析という学問分野の仕事に特化してもならない。
たとえば、私たちが外国に旅行したり留学したとき、
外国人、というかその土地の人たち同士が何かを会話しているとしよう。
それを私たちが理解するのであれば、
単に言語を翻訳するだけでは、絶対に完璧に理解はできない。
やはり、その土地の文化という背景知識がなければ
会話を聞く限りで、その人たちが何を会話をしているのか、
理解ができないのである。


もちろん、これは私たちが第三者として他者の会話を理解する
ということには限られない、というのが今回の議論の本質である。
つまり、私という自己と、誰か他者が会話をするとき、
いや、会話に限らないコミュニケーションをするとき、
それは、相手の理解なしに、完璧なコミュニケーションなど
確立されうらない、という意味なのである。
たとえば、アイコンタクトなど、いい例である。
アイコンタクトとは、眼と眼の会話、
つまりノンバーバルコミュニケーションだ。
アイコンタクトのようなノンバーバルコミュニケーションでは、
こうした他者の意図する何か言外の事柄を、
その他者の目つきからして理解しなければ、
コミュニケーションは成り立たないわけである。
私たちは普段バーバルコミュニケーションこそが
コミュニケーションである、というのを当たり前とするが、
たとえば、乳幼児や、障がい者、あるいは寝たきりの老人など、
社会には、言葉を発しようにも発することができない人が
ごまんといるわけである。
こうした人々とのコミュニケーションは、
どうしてもノンバーバルコミュニケーションに頼らざるを得ない。
特に、乳幼児や寝たきりの老人といった属性の人々とは、
私たちは、必ずや人生に一度は接することはある。
つまり、私たちにとって背景知識を必要とするような
コミュニケーションとは、本当は身近な存在なのである。

コミュニケーションの形式そのものが問われるようなコミュニケーション

この、背景知識を必要とするコミュニケーションについて、
今村光章は「ディープ・コミュニケーション」と呼ぶ。
ここまで私が筆をとっていて、
どこか誰かの主張の受け売りのような気がして本棚を探せば、
やはり今村氏、いや今村先生の議論のままだったわけである。
今村先生にはちょうど2年前、
教職の道徳教育法に関する授業でお世話になったわけだが、
その講義内で扱われた概念こそが、
この「ディープ・コミュニケーション」だったわけである。
もちろん、こうした概念を提示する背後には
彼なりの批判意識があるからであるが、
それが、「感情体験希薄化症候群」と名付ける現象についてである。
詳しくは、書を手にとってご確認いただきたい。


さて、この「感情体験希薄化症候群」と名付けられた現象については、
社会学の分野でも、
コミュニケーションの形式こそが重要視されるコミュニケーションとして、
鈴木謙介北田暁大、あるいは哲学なら東浩紀らによって
指摘されていることと、似た意味をなすと考える。ただし、若干異なる。
つまり、たとえば「ニート論争」であれば、
ニート」の本来の意味、つまり
"Non in Education, Employment or Training" の意味については
全くもって議論の内容から捨象され、
たとえばフリーターや引きこもりのような人についても
ニート」と称したり、
あるいは、そこから「自立していない」とか「自分勝手」とか、
つまり、本来の背景事実はまったく議論から排除され、
「働かない」という言葉のみを取り上げて、
そこから感情論が広がっていく、
それが「ニート論争」を簡単に要約したものであるといえる。


ただし、コミュニケーションの形式そのものを重視するコミュニケーションが
はたしてコミュニケーションとして不成立である、と
本当に判断していいのかは、疑問が残るものである。
たとえば、それこそ先ほどの「アットホーム・ダッド」の
杉尾家夫婦の会話である。
会話そのものは、まったくもって形式的な要素のみに占められる。
しかし、その背後には、夫婦の間で、
「岩崎はうざい」という感情が共通し、また疎通が取れたからこそ、
こうしたまったく内容的に意味をなさないコミュニケーションが
成立しうるわけである。


同じような例は、私たちの日常生活にありふれている。
それが、バーチャルコミュニケーションである。
つまり、ケータイやパソコンの上でのコミュニケーションとは
相手の目の動きや、わずかな動作をすべて捨象した、
純粋な文字のみのコミュニケーションなのである。
しかし、それでもコミュニケーションとして成立しうるのは、
そのコミュニケーションの背後には、
お互いの意識の共通性が見られるからにすぎない。


もちろん、バーチャルコミュニケーションにおいては、
意思の齟齬は、リアルなコミュニケーションに比べ生じやすい。
生じやすいというか、それをあえて楽しんでいるのが、
たとえば、2ちゃんねる的なコミュニケーションであるともいえる。
とはいえ、2ちゃんねる的コミュニケーションは
やはりコミュニケーションとしてはやや無機質に感じてしまうものであり、
2ちゃんねるを敬遠する人の多さは、それを象徴されるともいえる。
鈴木謙介が指摘するように*1
パソコン的コミュニケーションとケータイ的コミュニケーションの間では、
コミュニケーションする他者に対する期待の上で、
前者がやや希薄なのに対し、後者が濃密なのも、
それを象徴しているように思える。


だからこそ、バーチャルコミュニケーションにおいては、
その齟齬を解消させるために、顔文字という機能が用いられるわけである。
ただの文字のみのメールや投稿を読むよりも、
たとえば、笑顔の顔文字を使えばポジティブな会話になるだろうし、
また、泣いている顔文字を使えば悲壮な会話になるだろう。
とはいえ、その意思の齟齬を完全に解消できないところに、
顔文字の欠陥、というよりはその特徴があるようにも思える。


バーチャルコミュニケーションには身体性がない。
先ほど述べたように、
一つのメールや投稿を送られてきたとき、
そこに笑顔の顔文字がたくさんあって、さも相手はうれしいんだろうなと思っても、
それは、「あえて」その顔文字を使っているかもしれないのであって、
その「あえて」の真意までは、やはり完全には解釈しえないわけである。


ただし、その解釈しえないというのも、
あくまで「完全に」という範囲でしか議論はできないのではないか。
つまり、そのコミュニケーションの形式そのものののコミュニケーションでさえ、
つまり、顔文字という形式によって判断される
ケータイやパソコンのバーチャルコミュニケーションでさえ、
その背後に、相手の知識が自分自身にどれだけあるか、
つまりそれが身体性の領域の情報なのであるが、
それがどれだけあるか、という度量によって、
ある程度は判断しうるのではないか、ということができるのではないか。
そこに、今村の「感情体験希薄化症候群」という名称に
問題があるのではないか、という疑問が生じるわけである。
つまり、本当に、たとえばケータイやパソコンのコミュニケーションは
感情体験が希薄化したコミュニケーションであると
断定できるのだろうか。


鈴木は、前掲書で「メールを送る」という行為についてだけ見ても、
道具的な機能と、表出的な機能があるという。
これはプレゼントの贈答のコミュニケーションと同じ意味をなす。
つまり、私たちが誰かにプレゼントを贈るとき、
プレゼントを贈ることという行為そのものに意味をなすのか、
それとも、行為の背後には何か意図があるのか、
つまり、たとえば「お見舞い」の花束そのもので
相手にお見舞いの気持ちを伝えるようなプレゼントもあれば、
逆に同じ結婚指輪であっても、相手への想いをその指輪に託すわけだから、
それが相手に伝わるような指輪でなければならないというものもあるのである。
つまり、同じ顔文字であってさえも、
戦略的な顔文字であるのか、それとも感情をこめた顔文字なのか、
さまざまに意味は存在するだろうし、
それを同一化して、顔文字とは感情体験が希薄化した象徴だ、
とするのには、問題があるのではないか、と考えることができるわけだ。


そこで、「メールを送る」という行為について立ち戻って考えてみれば、
その行為へのアクセスの動機こそが問題となるのではないか。
つまり、たとえば出会い系サイトや2ちゃんねるといった
オンラインで出会う他者とのコミュニケーションであるのか、
それとも、リアルな空間で出会った他者に対するコミュニケーションに
「メールを送る」という行為を用いるのか、という違いである。
宮台真司は、この前者に対し「二次的現実」、
後者に対して「一・五次的現実」であると区別しているのだが、
つまり、この「二次的現実」におけるコミュニケーションであれば
相手に対する情報は全くないところから
コミュニケーションを構築していかなければならない。
だからこそ、戦略的にコミュニケーションを進めていかざるを得なくなる。
あるいは、妄想に基づいたコミュニケーションが展開される。
一方で、「一・五次的現実」のコミュニケーションであれば
相手の情報がある程度備わった上でコミュニケーションが展開されるわけだから、
それが本来濃密であればあるほど、意思の齟齬は生じなくなるだろう。

身体性への考慮が意志の齟齬を回避させる

さて、そこで「かる〜いコミュニケーション」についてである。
これは、リアルな関係性において繰り広げられる
コミュニケーションの形式そのものを重視されるコミュニケーションで
あると考えることができよう。
では、「軽い」と「かる〜い」の違いは何か。
軽いとは、本来的に軽いという意味をなす。
逆に「かる〜い」とは、本来的に軽くはないものを
「あえて」軽くしようという意味をなすものである。
「軽い」の意味を考えるために反義語を考えると、
つまり「重い」とは、相手にとって負担がのしかかる状態、
たとえば、知識的に、あるいは精神的に、などであるといえる。
「軽い」とはそうでない状態であると考えよう。


すると、「かる〜いコミュニケーション」とはどうやって成立するのか。
それは、「あえて」「軽く」するのだから、
つまり、相手に負担ののしかからないコミュニケーションを
「あえて」選ぶということになるわけである。
となれば、必然的にコミュニケーションの形式そのものが重視される、
つまり、そのコミュニケーションの背後の知識など捨象され、
万人受けしそうな話題を選び、そして「わかったふり」をすることで、
コミュニケーションは成立するのである。
つまり、この「かる〜いコミュニケーション」とは、
行為主体がともに「わかったふり」をすることでしか成立はしえないのである。


この議論の当初で挙げた実話も、
だからそもそも、「かる〜いコミュニケーション」において
「わかったふり」という態度が求められる中で、
「軽い」とか「かる〜い」とか
そういうことの意味を考えることすら、
ナンセンスであるということになってしまうのである。
コミュニケーションの本質にあるであろう身体性という背景知識が
捨象されることがこうして当たり前となった、
「かる〜いコミュニケーション」について、
やはりバーチャルコミュニケーションで感じられるのと同じ
奇妙な感覚を覚えずにはいられないのである。


とはいえ、だからそれが
コミュニケーションの形式そのものを重視したコミュニケーションへ
否定的なサンクションを与えるのも、
またおかしな話なのである。
コミュニケーションの本質は、やはり身体性という背景知識の有無に
かかっているとも考えることができる。
だからこそ、バーチャルコミュニケーションであれ、
リアルのコミュニケーションであれ、
コミュニケーションの形式そのものを重視したコミュニケーションであれば
身体性という背景知識がどれだけそこに反映されているか、
ということを重視する限りにあっては、
意志の齟齬が生じる確率は低くなるのではないか、と考えることができるだろう。

*1:鈴木謙介[2007]『ウェブ社会の思想』p.96