人に「尽くす」ということ

「「尽くす」ことは素晴らしい」という言説への疑念

ここ数日、ある後輩と話をしていて感じることとは、
「尽くす」ことの難しさである。


これは、「尽くす」ことに日常的にかかわっている人なら
当たり前のように思うことであろう。
「尽くす」とは、対象は誰に対してでもよい。
日常的には、妻が夫に尽くすという
近代家族の「幸福な家庭」像に映し出されているし、
社員が会社に尽くす、お客様に尽くすことも、
人に「尽くす」ことの例である。
ただし、これらの「尽くす」行為が成り立ちうるのは、
そこの対象/被対象の関係に、行為への自覚が存在するからである。
妻が夫に尽くすのは、近代家族の役割関係があるからであり、
社員が会社に尽くす、お客様に尽くすというのも、
報酬や代金といった、金銭のやり取りがあるからである。


「尽くす」ことの困難さが表れるのは、
その、いわば対価が得られにくい関係性においてである。
それが、社会貢献活動であり、地域活動であり、ボランティア活動などである。
たとえば、地域活動なんかでも、
実家が商店会か何かに属しており、
世間体という利害関係が背後にあるなら、
この困難さは露呈しない。
問題は、そういう利害関係が存在しないときである。


人はなぜ人に「尽くす」のか。
たとえば、社会貢献活動などを教育プログラムのうちに含ませる際、
「奉仕は義務なのか否か」という論争が起こった。
一部の意見には、社会に生きる上で当たり前の行為であるという声、
一部の意見には、他者の考え、社会観への理解力を養う行為であるという声、
他にも肯定側の意見にはさまざまに存在したが、
とりわけ、奉仕をさも当然の行為のように評すこれらの意見に、
疑念は起きないのか。
それは、対価が生じないのに、
人は「尽くす」ことに積極的に歩みうるのかということである。

ジョゼと虎と魚たち

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ジョゼと虎と魚たち」という2003年公開の映画がある。
原作は、田辺聖子の同名小説で、こちらは84年の作品であり、
映画では原作から設定を大きく変更されているが、
小説を読んだわけではないので、映画についてのみ述べることとする。


この作品は、
大学生の恒夫(妻夫木聡)と、足の不自由なジョゼ(池脇千鶴)の間の
ラブストーリーである。
ある時ジョゼに出会った恒夫は、ジョゼにひかれ
ジョゼの家に出入りするようになる。
その中、次第に恒夫はジョゼにできることをしてあげたいと思うようになり、
ジョゼに「尽くす」ようになる。


あるとき、事件は起こる。
ジョゼは乳母車にのって散歩をしていたが、
その乳母車が壊れてしまった。
その乳母車を直してあげた恒夫は、
試しに、散歩に出かけようかとジョゼに提案し、連れていく。
普段、世間体を気にして介護する祖母(新屋英子)は
人目の付かない時間に散歩に連れて行っていた。
祖母の許可もなくジョゼを昼に散歩に出かけて行った恒夫は
帰ってきたとき、祖母にきつくしかられてしまう。


また、事件は起こる。
恒夫は祖母に、ボロボロの家を福祉制度を使い改築するよう提案する。
祖母は、そんなうまい話があるわけがないと拒否するが、
恒夫は強引に手続きをし、改築することとなる。
もちろん、祖母にとっては悪い話ではなかった。
しかし、そこに、恒夫の彼女の香苗(上野樹里)がやってくる。
香苗は福祉の仕事に興味を持っていて、
恒夫とジョゼの関係にも関心を持っていた。
だが、恒夫に対して好意を持っていたジョゼは嫉妬し、
恒夫を追い返し、出入り禁止にする。


恒夫は、やりきれない思いでいっぱいだった。
しばらく、ジョゼと会うことができなかった。
が、あるとき、祖母が亡くなったことを聞くと、
いてもたってもいられず、ジョゼの元に駆け寄る。


以後、恒夫とジョゼは急速に距離を縮め、
一人ぼっちになったジョゼの家で、二人は同居することになる。


一方で、恒夫をジョゼにとられた香苗は、ジョゼに対し、
「あなたの武器がうらやましいわ。」と言い、
ジョゼに「ほんまにあんたもそう思うなら、
あんたも足切ってもうたらええやん。」と言い返されると、
香苗はすごすごと帰るしかなかった。


ここで、おもしろいのは、
恒夫とジョゼの関係と、香苗とジョゼの関係の変容である。
恒夫は、興味本位からジョゼと関係を結ぶようになり、
やがて、「世間」の象徴である祖母などとのやりとりから
葛藤を抱いていくものの、
ジョゼにとって自分がかけがえのない存在であることを自覚する。
つまり、自分が「尽くす」ことがなければ、
ジョゼは一人ぼっちになってしまう、と考えるようになる。
一方で、香苗は「尽くす」こととは「助けること」であると信じていたのが
ジョゼの存在によって、その信念が崩れていく。
「ご立派な人と違う」恒夫が「助けてもらう」べきジョゼにとって
かけがえのない存在になっていくことで、
ジョゼが「障害者のくせして私の彼氏を奪っていく」ことによって
逆に、その道で進もうとしていた自己像すら揺らいでしまう。


香苗は、その後、就活もやめてしまい、フリーターになる。
道端でその姿を恒夫に見られ、
「一番見られたくない人に見られてしもうたわ」と恥じるが、
恒夫は「そうでもないよ、けっこうかわいいよ」と言い、
香苗にとって、それが自分の生きざまを見直すこととなる。


一方で恒夫は、最終的にはジョゼと別れ、香苗とよりを戻す。
理由は、恒夫が「逃げた」からだ。
だが、ジョゼに「尽くす」ことが「助ける」という役割に固定化され
(弱きジョゼに対し)自分が強くなければならない、
という思いに縛られ、疲れてしまったからであろう。


それとは反対に、ジョゼは、恒夫との生活によって
はじめから何もない「深い深い海の底」からこの世に泳いでこれた。
しかし、それでも一人ぼっちの世界もよしとできるようになった。
恒夫がいなくても、一人で買い物に行けるようになったし、
一人で生活することもできる。


結局、大きなものを失ったのは、3人の中で恒夫だけだったのである。

「尽くす」ことは何のため?

ジョゼは、なぜ一人でも生きていけるようになったのか。
一方で、恒夫がなぜ「逃げた」のか。
そこに見出されるのは、
「尽くす」ことこそが、「尽くされる」側を作り、
「尽くす/尽くされる」構造を生み出していることである。


先ほど取り上げた後輩の話がそこで非常に興味深い。
彼女の提起するその構造は、「貧困」である。
「貧困」に「尽くす」活動を行っている中で、
彼女は自分たちこそが
そこに「貧困」というレッテルをはっているのではないかとする。
それは偽善というか、本当の貧困に対しては何もできないことに
自分が申し訳なくなったとする。
そして、そう自分が感じる中で、彼女は自信がなくなっていったという。


彼女の自信をなくす原因となったのは、
「ジョゼと〜」の香苗のように、
「尽くす」ことが大したことのないことであることに気づいたことによる。
自分たちは、「貧困」のために社会貢献をしていた。
しかし、その社会貢献が「助けてもらう」人にとって
「助ける」ことにはつながらなかったのである。


むしろ、「尽くす」ことの理想は、
そうした関係性に縛られることのない関係性にあるといえる。
つまり、尽くされる側にとって大した存在にならないほど、
理想であるということができる。


「尽くす」上では、「助ける」ことだけではなく、
逆に「助けてもらう」側面もある。
「ジョゼと〜」であれば、恒夫がジョゼに「尽くす」ことで、
ジョゼの生活上で「助ける」だけではなく、
愛情とは何かと言うことを気付いていく、ジョゼに気付かされるということで
恒夫はジョゼに「助けてもらう」のである。


「尽くす」ことは、それだけでなくドロドロした部分もある。
恒夫はジョゼに尽くすことで、
ジョゼの祖母との軋轢に巻き込まれていた。
もちろん、祖母にとっては、世間との戦いがあったのである。
祖母との戦い、ジョゼとの戦いは壮絶であり、
急に帰らされたこともあったし、
本を投げつけられたこともあった。
すると、人に「尽くす」というイメージに抱かれる
「善意」とか「共感」とか「やさしさ」「思いやり」とかいったものとは
まったくかけ離れたものなのである。


それでも、私たちが人に「尽くす」のはなぜかといえば、
それは「尽くす」という行為を続けたい欲求がどこかにあるからである。
たとえば、災害が起きたとき、救援物資を送ることがある。
もちろん、政府や赤十字などのオフィシャルなものはあるが、
それではなく、私的に送られる物資がある。
そこには、よくゴミ同然の衣服や食料が入っていることがあるという。
しかし、被災者の側は受け取るべきという立場、
そしてそれに対して感謝をしなければならないという期待があるので、
被災者はそこで自分たちの苦しみを表に出しづらくなる。
一方で、援助者側は援助物資を送ったことで
「もう大丈夫だ」という欺瞞の思いを抱く。
その結果、「尽くす」者と「尽くされる」者の間に
支配―服従関係が、暗にできあがってしまうのである。*1

「尽くす」ことは日常的な行為であり、自覚的な行為である

「尽くす/尽くされる」関係は、
具体的な活動をしていく上で、双方がお互いを理解することで、
初めて成り立つことができるのである。
そこでは、「尽くす」ことが華やかな行為でも何でもない。
ただの、何の変哲もない、人間関係そのまま、
私たちの日常と何も変わらないのである。


ただ唯一、日常の私たちの人間関係と異なるのは、
そこに「尽くす」という行為が含まれるという点である。
ただなんの変りもない人間関係であれば、
ただ尽くす行為であれ、そうした「尽くす」ことに
無自覚でいるのだろう。
しかし、人に「尽くす」ことを選択した時点で、
「尽くす」行為そのものに対し、無自覚ではいられない。
先ほどの自信をなくした彼女の例で言えば、
そこに自覚的になってしまった時点で、
それまで揺るがなかった、無自覚の自信が揺らいでしまったのである。


「尽くす」ことは日常的な行為である。
ただ、それが特殊な所以は、
何の変哲もないであろう、人間関係において、
その関係性そのものが存在することに対し、
自覚することができる、いや自覚せざるを得なくなるということである。


もちろん、自覚的と言う意味においては、
「尽くす」行為によって、「尽くされる」側をつくり、
「尽くす/尽くされる」という関係性に
両者をはめてしまう側面も存在する。
そこに対し、「尽くす」ことが華やかな行為であると自覚することも
もちろん、関係性に自覚的になるという行為に違いない。


しかし、自覚的な行為であれ、
あくまで「尽くす」行為は日常的な行為である。
そして、もっとも重要なことは、
「尽くす」側があれば「尽くされる」側が存在する、
「尽くす」行為とは相互行為に他ならないことに
無自覚ではいけないということである。
「尽くされる」側にとってみれば、
ただ「助けてもらう」わけでなく、両者で「支えあう」関係が理想である。
そこに気づくことができず、
「尽くす」ことで「助ける」ことがすべてであると考える結果、
「ジョゼと〜」の恒夫のように、
あるいは、先ほどの彼女のように、
自信が喪失し、疲れてしまうのである。


あくまで利害関係の生じない、日常的な行為の「尽くす」行為において、
結局理想なのは、
両者にとって、負担にならない関係であるということである。
「尽くす」ことばかりに気を取られてしまえば、
「尽くす」側が疲れてしまう。
一方で、「尽くす」ことが素晴らしい行為だと思ってしまえば
「尽くされる」側の視点など気づくことができない。
だからこそ、
「尽くす」上で、「尽くされる」側にとって、
大した存在にならないくらいの方がよいのである。
「ジョゼと〜」において香苗の心理が変容したようにである。


それにもかかわらず、「尽くす」ことが当たり前のように
なされるべき行為とされるのは何か。
そして、その下で「尽くす」ことへのプレッシャーが生まれるのは
なぜなのか。
それは、「尽くす」ことへの欲望、
つまり、「尽くされる」側への支配欲が、無自覚に働いているのではないか。
言いかえれば、「尽くす」行為によって、
支配欲とか、あるいは名誉といった対価が生じる期待があるのである。


だが、あくまでサービス関係でない日常的な「尽くす」行為によって
対価など生じえないのである。
それは、私たちの日常的コミュニケーションに
対価が生じないのと同様である。
にもかかわらず、「尽くす」行為は素晴らしいとされる言説がはびこるのは
いったいなぜなのか、
私は疑問を抱かずにはいられないのである。

*1:原田隆司[2005]「ボランティアというかかわり」井上・船津編『自己と他者の社会学有斐閣 ,p.255