それでもニューヨークは動き続ける。

mzkyrhjmy2008-12-05


アメリカが素晴らしい国だなどと言うのは、一種の幻想にすぎない。
まぁ実際すばらしいところはいくらでもあるのだろうが、
少なくとも私には理解ができない、というのが今回そう言う趣旨である。



東京生まれの私ですら、いくらかの憧れをもっていたニューヨーク。
実際訪れてみると、はっきり言うと、なんでもない、ただの冷たい街である。


日本にいれば、地方出身の人は東京に憧れをもって来るという。
だが、東京生まれの人間にとっては、東京のあらゆる光景は当たり前にすぎない。
東京生まれの人間にはもちろんそんなことは理解できないわけだが、
「東京」と言うと、憧れの要素があるらしい。
ニューヨークへの憧れも、同じようなものである。
アメリカは、政治的にも、経済的にも、文化的にも、
世界でゆるぎない地位を誇る。
そのうち、経済と文化の中心地が、ニューヨークである。
「ロンドン」と言ってもたいていの日本人はそれほどの憧れを感じないかもしれないが、
「ニューヨーク」と言うと憧れをもつ。
ニューヨークというと、そのような場所なのかもしれない。


しかし、実際に訪れてみると、ニューヨークもやはり単なる都市にすぎない。
いや、それどころか、非常に冷たく感じる場所でもある。
だいたい、英語がそれほどできない人種にも、
なにかにつけて当然の如く、早口の英語でまくしたててくる。
言語の問題だけでなくとも、
ニューヨークにはニューヨークの、東京には東京の、都市のルールがある。
あらゆる都市のルールは、よそ者には早々に理解することは難しい。
それでも都市民はそのような者に、同じに扱おうとする。
「東京は冷たいところだ」とか「東京を色で表わすとグレーだ」などと
よく言われるが、ニューヨークも全くそれは同じ。
東京に住んでいればわからない都市の冷たさを、
ニューヨークではさらに味わうことができる。



憧れというものは、いつか終わりを迎える。
憧れは当たり前、日常へと変化し、
その日常に違和を感じる人間にとっては、それが恨みに代わる。
もちろん、東京といっても、ニューヨークといっても、
冷たい都市だからと言って、そのうっ憤を誰にぶつけるわけにもいかない。
だれに責任があるわけでもない。
責任があるとすれば、むしろ、都市に出てきた自分のほうにある。
それでも、気分ではそのうっ憤を誰かにぶつけたくなるものである。


ニューヨークは、世界の経済、文化の中心地である。
中心があれば、もちろん周縁もある。
グローバリゼーションは、あらゆる社会活動を
ボーダレスに行うことを実現してきた。
だが、その一方で政治や経済は中心へと力点が集中する傾向も見られる。
周縁にいる人間にとってみれば、
ニューヨークにいる人間に、自分の生活の苦しさの恨みを持つのかもしれない。



9.11テロも、実はそのようにして、
周縁部におかれたイスラム社会出身の
イスラム原理主義」(≠イスラム原理主義)テロリストたちに
アメリカという都市でのアノミイックな体験がもとで、
経済の中心であるニューヨーク・ロウアーマンハッタンへと
その個人的な晴らしようのない恨みをぶつける形で
起こったものなのかもしれない。


WTC跡を訪れると、あのとき、
ちょうど2001年9月11日日本時間22時頃、
テレビで生中継されたWTC崩壊の瞬間を思い起こされる。
あの衝撃の映像を思い出し震えが出てくるのと同時に、
一方で、その脇を平然とハイスピードでウォール街へと行進する
ニューヨーカーたちの姿を見ていると滑稽にも見えてくる。
あの世界中が怒りに満ちた事件の現場の横では、
ニューヨーカーたちはまるで何事もなかったかのように日常を送るのである。



そして、WTC跡には、あと2年もすれば
テロがなかったかのように、新しいビルが建つことになる。
結局、テロリストたちの必死の行為は何だったのか、
決してテロという暴力行為を認めるわけではないが、
その彼らが感じたやり場のない怒りがなかったかのように、
ニューヨークは、またそれまでのように穴を埋め、
また生き返ることになるのである。


それでも、ニューヨークという都市は動き続ける。
世界に何かの使命があるのか、
経済や文化に行きつくゴールはあるのか、
見えないゴールの中で、
そこに向かって向かわなければならないゴールも明確ではなく、
アノミイックな日常とはそういうものであり、
ニューヨークは、巨大な機械のごとく、今でも歯車を回し続けている。