縁というもの

人との出会いというものには「縁」というものがつきものある。
この縁について、研究室の仲間の間で議論をしていたのだが、
どうも、社会学的な発想からは理解しがたい。
例えば社会学にもネットワーク論やら、社会関係資本論やら、ハビトゥスやら、
縁につながらせるような、関係理論はいくつもある。
しかし、それらはあくまで縁の結果論を述べているに過ぎなくて、
偶然的に、「あの時ああしたら、今頃こうならなかっただろう」というような
仮定法過去的な発想には、どうもなりえないわけである。


例えばよくある例が、恋愛での出来事。
そこで議論していた仲間の一人の女子が言うわけである。
私は今まで恋人ができたことがない、と。
ここでなぜその子ができなかったのか、他人事のように考えてみると、
まず考えられるのは、その人に魅力がないから。
「人は外見が90%」やら、数値は不確かだが、そういう言説もある。
要は、その人に外見的あるいは内面的魅力がないから、
恋人ができない、などと考えるのは、最も一般的な考え方である。
ただし、この考え方は「恋人がいない」ということの
ある種のスティグマにもつながるので、
かなり危険な議論でもあるように思えるわけだが。
同時に、仮に外から判断される外見的な魅力がなかろうとも、
内面的な魅力というものは、見る人の角度によっては、
いかようにも魅力となりうるわけである。
ということは、その人に魅力がない、ということは、
誰しもなりえない、というのが、内面的な魅力というものである。


あるいは、「高根の花」とも言うが、
要は、自分の見せ方が悪いという場合もある。
高根の花と言われるなら、プライドを無視してでも、
それまでの自分につけられたイメージを脱構築していけばいい。
しかしその努力をしていないからこそ、
高根の花であり続けている、という見方。


もうひとつは、それこそ、縁である。
「運命的な出会い」とも言う。
まぁ「運命」という表現は、どうも後付けっぽいような気もするので、
私は好きではないのだが。
要は、自分にフィットする相手というものが、
ちょうどいいタイミングに表れていない、という問題。
まぁこれも、そのタイミングに出くわすためには、
もっともっと自分の世界を広げて行って、
自分からいろんな人と出会っていく必要もある。
そうした、それこそこれも、努力をしてこなかったから、
彼女が今まで恋人ができなかったのではないか、
とする見方もできないこともないわけだが、
ひとまず、努力の問題よりも、
結局は、いかようにも努力をしていても、していなくても、
どこか、何かの、ふとした偶然的な些細な出会いが、
それこそ極端な例でいえばトレンディードラマチックな出会いが、
そのまま恋愛関係へと移行する可能性も否定できないわけだ。
ほんの些細な、いつ何時の、どうなるかもわからない、
小さな出会い、それこそ縁が、
恋愛に限らずとも、人とのその後のつきあいを生んでいく。


一般論として、割りと具体的なことをいえば。
「私」自身で本当に辛い局面に陥りそうな時、
なぜか、声をかけてくれる人がいる、なぜか。
その声をかけてくれる人が、
相手である「私」が本当に辛いと気づいていなくても、
なぜか、声をかけてくれている。
まさに偶然である。
こうした局面で、人はその相手を「運命の人」だと思うわけだ。
「運命」といっても、
運命とは生まれる前に神の定めた道の上にある出来事であるわけであって、
それが後付けになるのもおかしな話である。
運命の人というなら、それこそ政略結婚のようなものをいうのならまだしも。
それなので、あくまで「」つきの「運命の人」である。
だけれども、その人がなぜ「運命の人」なのかは、
例えばいろんな、階層やら、出身地域やら、ネットワークやら何やらの属性を
調べていって何か共通点を生み出したからといっても、
それはやはりあくまで、後付けの解釈にしか過ぎないということである。


問題はなぜ、その人なのか、
今の例でいえば、他の人ではなく、なぜその人なのかということである。
それを、後付けではない解釈をしようとしたら、
どうしても、何かの属性をもって共通性を見ようとしていったとしても無理がある。
受験にしても就活にしてもなんにしても、
なぜその学校なのか、その企業なのか、
この学校の、企業の、こういうところがいい、とか
そういうのを見ていったとして、
それでも、結果的には試験に通ったとか、
あるいは、もっと根本的にいえば、
その「こういうところがいい」というところも
そう見させてくれた何か出来事やら人やらに出会わなければ、
結局その学校やら企業に出会うことはなかったのである。


つまり、何かの「縁」というものは、
こうして偶然的な出会いによって生まれるものなのである。
そして、その「縁」を大切にしている人なら、
次々と新しい「縁」が集まってくるということ。
おそらく、ネットワーク論のようなものも、
ここから先をしか説明することができないわけだ。
その前の段階、つまり人と人との関係を生み出す「縁」については、
一つ一つの出会いを大切にしましょう、というような、プリミティブな、
後付けの解釈では説明できないような世界なのである。
社会学は、どうもそこを扱うことが弱いらしい。