大森美香脚本作品のケーススタディ

本章では前章を受け、
きみはペット」、「風のハルカ」、「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」の
ケーススタディを通し、大森美香の世界観を見てみることとする。

きみはペット

本作は、2000年より連載が開始された小川彌生の同名の漫画を原作とし、
2003年4月のクールで、TBS系列の水曜10時のドラマ枠で放映された。
同枠はいわば「死に枠」であり、「ひと夏のパパへ」では視聴率で3.6を記録したほどだった。
本作が現在の視聴者にとって印象があまり残っておらず、
また漫画では5年にわたって連載が続けられたにもかかわらず
ドラマで続編が製作されなかったのはそうした事情もある。
だがそれでも再放送が2,3年に1度はされる(ちなみに現在MBSで再放送中である)し、
また同枠の中にあって10%前半の視聴率を残すなどしたことは、
実際に視聴していた人々には印象を残した結果でもあるといえる。


同ドラマが印象深いのは、
何といっても「男をペットにする」という概念を作中で提示したためである。
放映中は、2ちゃんねるなどで
「飼う」という概念が差別ではないかという意見も多かったようだが*1
実際に「飼う」ことの''是非''や、
本作が実際に「飼う」ことを啓蒙している結果になるかどうかは置いておくとして、
「飼う」ことによって飼い主にどういう影響があるかという点が、
本作において非常に重要なテーマであったということができる。


本作は、キャリアウーマンであるスミレが日常の閉塞感を抱く中で、
バレエダンサーである合田武(松本潤)と出会い、
彼を「モモ」と呼んで「ペット」とする生活をするようになる、
というのが、大まかなあらすじである。
ここで注意したいのは、「ペット」とはあくまで非日常の概念であるということである。
スミレにとって日常であるのは、企業社会とそれに付帯した専業主婦あるいは働くママ像である。
本作をスミレを中心として見ていく上では、
「日常=企業社会・専業主婦あるいは働くママ」vs.「非日常=男をペットとする生活」
という二項対立が浮き彫りとなり、その中でスミレをとりまく関係性やスミレのアイデンティティ
どう変容するかということが、本作を解釈する上で重要となる。
その上で、厳しい視線が働くキャリアウーマンを取り巻く男性中心の企業社会の中で
女性はどう生きていくかということにストーリーの幹がある。


一方で、本作をモモを中心として解釈していくと現れる構図は
「日常=ダンサーの道を極めること」vs.「非日常=ペットとして女に飼われる生活」
という二項対立である。
彼はバレエを続けていたが、親(夏木マリ)のプレッシャーが強すぎたため家出をしていた。
彼もペットとして飼われる中でキャリア観を変容させていくわけだが、
本作では親子関係の親密性の変容についてはじっくりと描かれていないため、
とりあえずこの視点についてはこれ以上触れず、スミレの視点に絞ることとする。


さて、モモと出会った後、スミレは長年の憧れだった蓮實先輩に告白され、付き合うこととなる。
スミレを中心とした本作の構図も、蓮實とモモの間でのスミレの葛藤を中心として描かれる。


蓮實とスミレの関係は、なんとなくぎこちない関係だった。
スミレにとって蓮實とは憧れであり、
付き合うとなれば本来夢見心地の生活となるはずだったが、そうではなかった。
スミレは蓮實の前になると、なぜか緊張し、素直になれない。なぜか疲れてしまうのである。
蓮實もスミレに、もっと甘えてほしいと言うが、なかなかそうできない。
一方で、スミレは家に帰ると、誰に対しても強がっていた我を忘れてしまう。
モモの前では自分の弱さを見せることができ、
モモが家からいなくなれば、心配でたまらなくなり探しに出てしまうほどである。


これは、ある意味本当のペットと人間との関係によって説明が可能であろう。
山田昌弘は『家族ペット』の中で、
「純粋な関係性」がペットとの間でこそ実現しているとする。(山田[2004]p.109)
人間の男女交際の場合は、どうしても打算的な関係が入り込んでしまう。
たとえば、相手の年収や自分の見栄から、付き合うことを損得で考えがちになる。
しかし、ペットにはそういう下心は存在しないから、
お互いがお互いを思うという感情の関係である「純粋な関係性」も実現しやすい。
スミレが蓮實に緊張してしまうのは、
「自分が今こうしたら蓮實にどう思われるだろうか」などと考え込んでしまう結果でもある。
一方で、「ペット」であるモモにはそういった気兼ねは不要なので、
「泣くなら死んだ方がまし」というくらいの涙でさえ見せることができるし、
蓮實とならためらってしまう一緒のベッドに寝ることでさえも、気にならないのである。
また、モモの前で涙を見せることで、
それまで抱えていた片頭痛も次第に解消されていく。


スミレにとって、蓮實とモモとはどっちつかずの関係だったが、
やがてそうした状況でもいられなくなる。
まず、蓮實にとっての恋敵である紫織(酒井若菜)が現れる。
蓮實にとって紫織は全く眼中にない存在だったが、
紫織がなりふり構わず猛烈に蓮實にアタックしていく一方、
スミレが相変わらず自分に対して気を使ってばかりの中で、
蓮實は紫織の姿勢に心が動かされていく。


だが、蓮實はリオデジャネイロへの転勤が決まると、
スミレにプロポーズをする。
スミレはもちろんうれしいのだが、蓮實についていくのであれば、
自らのキャリアを中断し、退職をしなければならない。
一方で、モモはついに母親と対面することで、ドイツ留学を決意する。
結婚して蓮實についてリオに行く気も、
モモを引き止め「ペット」の飼い主としての生活をやめる気もないスミレは葛藤する。


スミレにとっての非日常的な空間が終わりを遂げたのは、
スミレが蓮實にモモとの関係を打ち明けたことだった。
蓮實は「俺にだけはありのままの自分を見せてほしい」と言うが、
スミレは「どんな顔をすればいいんですか?
先輩が思う私ってどんななんですか?
私は、だって先輩に好かれたくって、先輩の思う私になりたくて、
感情ぶつけることだってできないのに、
先輩が私のどこを見てくれているかだってわかんないのに、
そんなこと、簡単になんてできません」と言う。
もちろん、蓮實はスミレがモモをペットにしていることを受け入れられないのだが、
この打ち明けた瞬間が、スミレにとっての「憧れ=恋愛」図式、
つまりあこがれる人に対してなら何でもしようという姿勢の「敗北」であったといえる。


ここで、スミレを中心とした構図を逆転して考えたい。
すなわち、スミレが蓮實とモモに対してどう思われているかである。
実は、蓮實はスミレに対して代替可能な存在としか見ていない。
モモが「ペット」であるという衝撃的な隠し事を打ち明けられた瞬間、
スミレを帰らせ、ツーショット写真を倒すのだが、
これはその他の誰にも言えないような悩み事、隠し事を、
''自らの方から解決させる''姿勢が存在しないことを示しているといえる。
この頃、恋敵であった紫織が退職をしてまで猛アタックをかけていたのだが、
蓮實にとっては、結果的にスミレであれ紫織であれ、
どちらでもよかったのだとも解釈できる。
一方で、モモに自分の存在をどう思っているのかと問いただされた後、
スミレはモモを「武さん」と呼んでしまうが、その時モモは、
自分の役立たずで駄目なところを全部知っていて、
役立たずだけど必要だって、スミレちゃん''だけ''は俺のことを思っててほしい、と泣く。
スミレはそのモモに対して、
「もう大丈夫、どんなモモでも、モモがどこに行っても、ずっと大好きだから」と慰める。
つまり、モモにとってスミレの部屋とは、
スミレと同じくありのままの自分でいられる場所であったということである。


そして、スミレとモモの最後の夜。
これは原作にないドラマ独自のシーンである。
モモの最後のお願いと言うことで、二人はセックスをするのであるが、
その流れのもとにあるのは、
スミレが行かないでほしいと言ったことにある。
スミレは笑顔で見送り、モモは笑って別れるつもりだったが、
結局は勢いでやってしまったのである。
その結果、スミレは見送ることもなくモモが起きる前に家を出てしまうのだが、
それは、モモのドイツ行きを引き止める自信がなかった、というよりは、
スミレにとってただの蓮實の代わりであったことを否定したかった、
つまり、起きて気まずい関係になり、
またどういう顔をしたらいいかわからず素直な自分を出せなくなりたくない、
と思った結果であるともいえる。
二人とも、その結論としては「するべきじゃなかった」と言う。
愛情とは形にしてはいけないものだった、ということである。
だが、その時、非日常は日常の空間へと転換したのである。


結局モモはドイツへ行くことになった。
スミレは会社でも他の人と支えあって生きていくことを学んだ。
一方モモは、ドイツ行きを最後まで迷っていた。
自分のダンスでの成功のために行う留学とかけがえのない日常の間で
最後まで葛藤していたのである。
だが結局、最後の最後にドイツ行きをやめ、成田空港でタクシーに飛び乗る。
モモは途中で交通事故にあい、結局スミレの部屋に帰ってくる。
「私には弱いところもあきれるほどの格好悪いところも全部見せられる存在がいる。
それはまるで奇跡みたいな事だから私はこの手をもう離さない。」
この後は恋人ともペットとも違う関係性となる。
「いつもそばにいて心地いいならそれだけで十分。」


最後にモモがスミレの家事を手伝っているシーンが出てくる。
モモは卵を割るのに殻をボールに入れてしまう。
スミレも包丁で指を切ってしまう。そうしたシーンでドラマは幕を閉じる。
結末として二人は恋愛関係にはならなかったが、
ルームメイトのような関係に落ち着いたということでまとめることができるだろう。


ここでペットと飼い主の関係性について見てみる。
ペットとは餌をもらわなければ死んでしまうし、
飼い主は餌をあげるだけでなく、その他糞尿の処理もしなければならないし、
病気になれば多大な治療費を負担しなければならない関係である。
それでも飼い主はペットをなぜ飼い続けるのか。
それは、ペットが「かけがえのない存在」だからである。
ペットにとってはもちろん、自分の飼い主は生きる上でかけがえのない存在である。
なぜなら、自分で餌を買ってくることはできないし、
糞尿を処理することはできないからである。
一方で、飼い主にとっては、糞尿の処理や餌の購入など、
そんな面倒くさいことをしてまでも飼いたいと思うような要因がなければ飼わない。


糞尿の処理や餌の購入など、人間であればだれでもすることはできる。
これはモモも同じことを言っている。
ペットなど、探せば似た犬や猫などどこにでも売っている。
でも、それでもその犬や猫、小動物じゃないといけない理由があるからこそ、
人はペットを飼い続けるのである。
その要因とは、''私が''餌をあげなければこの子は死んじゃうのではないかという思いであり、
また、それだけでなく、
この子の前でならば気兼ねなく自分をさらけ出すことができる、
という思いではないのか。
それが、ペットと飼い主の間の「かけがえのなさ」である。


きみはペット」のモモとスミレの間にもそれは当てはまるのである。
スミレがモモのためにご飯を作らなければならないのは、
それは飼い主だからである、ということに尽きるのだ。
そしてモモはペットである限り、料理は作らなくていいし、
むしろ作ってはいけないのである。
だが、この作品の「親密性の変容」は、モモの心情の変化によって
その関係性が変容していく様をえがいているといってもよい。
すなわち、ペットがペットである限り、
飼い主に対して自分の感情をお互いに完全に理解しあうことは
できないということである。
たとえば、ペットの犬が飼い主である自分に対してはじゃれてきて、
見知らぬ訪問者には敵対的な態度を見せるとする。
確かに、このペットの犬は心を許した飼い主には「自分」を見せ、
よくわからない訪問者には「自分」を見せてはいないかもしれない。
ただ、あくまでこれは飼い主による解釈にすぎないのである。
犬の方ももしかすると同じように思っているかもしれないが、
あくまでそれは「もしかして」の範囲を超越しえないのであって、
お互いが完全に理解し合った関係性にはなりえない。
モモが自分の感情をぶつけることによって、
スミレとの「ペット―飼い主」の関係は
意義を失ったのだと考えることができるだろう。
だからこそ、最後の最後のシーンでは、
モモは家事を手伝っているのである。


一方で、スミレにとってモモにご飯を作ることは、
自分がモモに対してだけ素の自分を見せられている限り、
絶対に苦痛ではないのである。それは飼い主だからだ。
また、モモが将来を約束されたダンサーであり
ドイツ行きを引き止めることが彼の将来を壊す意味をなすならば、
彼女がドイツについていく可能性も確かにあったかもしれない。
しかし、それでは結局、
モモとの関係が蓮實と同じ関係性に落ち着いてしまうことになる。
蓮實についてリオに行く可能性を否定した以上、
彼女にとってドイツ行きの可能性もありえなかった。
一方で、モモにとってはドイツ行きとは
実ははっきりした意味をなすものではなかったのである。
たとえば、「ドイツに行かなかったらどうなのか」
ということはモモにとって重要な価値を持たず、
自分を成長させるために行くだけなのである。
しかしそうした思いが彼にとってそれほど大きくなく、
またスミレとの生活を天秤に掛けた時、
最終的にはスミレとの生活の方が重かったからこそ、
ドイツ行きを直前でやめて戻ってきたのである。*2
だが、改めて断れば、そのスミレとの生活とは、
恋愛感情に規定されないものである。


以上のように本作で注目すべきは、
「ペット」という関係性はあくまで重要でないということである。
あくまで作中の設定にすぎない。
本当に重要なことは、
鎧をかぶってキャリアウーマンが
男性的企業社会で生きなければならない現実の中で、
いかにその男性性の鎧を外すかということに
焦点が当てられているということではないか。
それは、鎧を外すとすれば、
やはり本来の女性に戻り、
キャリアをあきらめなければならないのか、
という現実に対する批判でもある。
大森がそこで対案として示すのが、
最終的にモモとスミレが落ち着いた、
恋愛関係でも「ペット―飼い主」関係でもない、
「かけがえのない存在」との、不思議な「親密な関係性」である。
だが、その関係性は「純粋な関係性」であり、
また、従来の「恋愛」にも規定されず、
また「ペット―飼い主」関係でもないので、 
餌=料理などの身の回りの世話も、
必ずしもスミレがする必要ないのである。


そこを「ペット」というキーワードだけにとらわれてしまうと、
どうしても本作を旧来のジェンダー概念で
とらえなければならなくなってしまう。
たとえば、「飼う」という言葉から連想し
男性差別である」とするような
ジェンダーバックラッシュのような批判や、
あるいは、スミレは仕事も家事もどちらもやらなければならず
スミレだけが「損」をしている、とする、
従来の文化の秩序維持という政治的側面に着目した観点から
抜きんでることができないのである。
本作を解釈する上で大事なことは、
従来のジェンダー性に拘束されない
(≠解放された)関係性の構築の側面に
着目すべき点であると指摘することができるだろう。
この点は、「風のハルカ」における、
ハルカの母・木綿子(真矢みき)を中心に、
父・陽介(渡辺いっけい)と青木健二(別所哲也)の間に見られる
対立性に同様の指摘ができるが、
この点を含めて次節で見ていくこととする。

風のハルカ

風のハルカ」は、
2005年度下半期のNHK連続テレビ小説として放映された。
朝の連続テレビ小説といえば、
共通文化の養成において重要な役割を果たし、
特に女性の生涯をスポットに当てる上で
男性的な企業社会に立ち向かうヒーロー性を前面に出し
たとえば「おはなはん」のような代表作を生み出してきた。
近年その傾向は停滞しているが、
風のハルカ」が、そうした朝の連続テレビ小説
共通文化の養成という文脈に対し、
一つのアンチテーゼを提示したことで
その停滞傾向を僅かばかりであるが止め、
また独自のファン層を生み出すこととなった。

こうした共通文化の養成という文脈の上で
風のハルカ」を考えることに関しては、
ジェンダー視点で朝の連続テレビ小説を読む」(『唯物論研究年誌〈第11号〉ジェンダー概念がひらく視界―バックラッシュを超えて』所収)
の中で和田悠が「風のハルカ」について取り上げていることから、
そちらを参照していただければよいと思う。


ただ、今回ここでの指摘における視点は和田の主張と少し異なる。
和田は朝の連続ドラマ小説の文脈の上で主張を展開する上で
主人公・ハルカの成長というストーリーを
自らの主張の核におくのに対し、
ここでは、ウォーナーのいうような家族の二層性に着目したい。
家族の二層性とは、核家族といっても
親としての家族と子としての家族に別れるということである。
つまり、親としての家族とは
自ら結婚によって家族を作り上げるものであるのに対し、
子としての家族とは
自らの意思に関係なく生み育てられるような家族である。
ウォーナーは前者を生殖家族、後者を定位家族と呼んだのだが、
風のハルカ」においては、この点で
前者としての水野家の離合集散と、
後者としてのハルカをはじめとした恋愛―結婚(―出産)の
二つのテーマに、物語のパーツを
大きく整理することができるのではないか。
そして、その二層性を取り入れた本作は
それまでヒロインの後者の部分しか描かなかったストーリーに
前者の部分を取り入れることによって、
作品のストーリーの深みを増すことに成功したといえるだろう。


その上で、大森作品の流れをみてみると、
風のハルカ」が大森作品の上でも画期的であったことがわかる。
きみはペット」や「不機嫌なジーン」が
「企業社会―恋愛/結婚」という構図に限定される中で、
そこに家族という関係性を取り入れたためである。
つまり、家族とは自らの結婚で作るものであるが、
一方で自らの意思と無関係に親によって作られるものであるし、
また自分の子どももその家族を「つくる」自由がないのである。
水野家の、定位家族―生殖家族という二層性から
風のハルカ」が目指そうとしていたことは
この点で単なる批判的視点にとどまらない、
新しい関係性の構築の一つの方法を提示することにあったことを
くみ取ることができるだろう。


その一つの方法とは、「家族のレストラン」である。
当初の「家族のレストラン」とは、
陽介が専業主婦業に追われる木綿子を解放させることに
目的があった。
そして陽介は脱サラをし2人の子どもも連れて
大阪を出て湯布院へとやってくるのである。
だが、その夢は、木綿子との離婚を経て挫折を経験する。
その後、「母不在」の崩壊した家族が描かれ、
また、木綿子に健二という新しいパートナーができたことで
陽介は「家族のレストラン」経営、
つまり家族4人で暮らす温かみのある食卓をあきらめてしまう。
だが、ハルカにそれが健二への嫉妬であると見破られ
「お父さんは逃げている」と非難されたことをきっかけに、
もう一度「家族のレストラン」経営に向け奔走するようになる。


「家族のレストラン」再建が現実的なものとなったのは、
ハルカが湯布院に帰ってきた後の音楽祭だった。
音楽祭で大勢の客が押し寄せた結果、
町の人間が音楽を楽しめなかった反省から開いた後夜祭は、
レストラン跡地を会場とした。
その後夜祭は地域の人々の協力あって成功した。
ここから、「家族のレストラン」の再起は
陽介と血縁関係のない木綿子の家族をはじめ
地域の様々な人々のつながりの中で実現していく。


「家族のレストラン」の名称も、
最初の「ゆうこ」から、再建時は「風のレストラン」に
変わっていた。
「ゆうこ」とは、まさしく自分の妻であった木綿子の名である。
この名称には、夫が妻を独占するという閉鎖的な関係性が
あらわれているといってもよいだろう。
一方で「風のレストラン」とは
離合集散の開放的な関係性の象徴である「風」が冠されている。
この「家族のレストラン」の名称の変化こそが、
作中の家族像の変化そのものの象徴なのであり、
また、開放的な共同性こそ、
大森が提示したかった家族像、ジェンダー像であると考えられる。
このような作中の「親密性の変容」を前提として
水野家の4人の関係性の変容を見てみるとおもしろい。


当初のハルカとは、「母不在」の一家の中で
まさに母の代理であったということができる。
そのきっかけは、両親の離婚であったが、
離婚に伴い本来は母・木綿子について大阪に行くはずの
アスカ(黒川芽以)がハルカを頼って湯布院に帰ってきてしまう。
一方で、同時期に木綿子と対照的に、
近所の老舗旅館・倉田旅館では百江(木村佳乃)が
29歳も年上の主人・宗吉(藤竜也)と結婚し、
倉田家に「お嫁」として嫁いでくる。
この姿を見たハルカは、
一家を捨てて出て行った木綿子を対抗的存在として、
また自分は「お嫁さん」になることを夢見ていく。


その結末は、ハルカの大阪への「出稼ぎ」である。
ハルカは、陽介が日雇いで一家を支える中で、
バイトをして生計の手助けをしていた。
しかし、それでもアスカが自らの意思で東京への大学進学を
希望したことで、その学費を稼ぐために、
木綿子のいる大阪に出るのである。


ここで、ここでのハルカのキャラクターについて
アスカと木綿子との比較を通して振り返ってみる。
アスカは「母不在」の家庭にスティグマを感じていた。
その思いを小説に託し、その小説は賞を受けるのだが、
アスカはそうした未来のあるはずの自分の才能は、
家族のせいでだめになっている、と感じるのである。
だからこそ、家を出るということで、東京に行くのである。
ハルカが一家の母の代理であったのとは対照的にである。
そして、ハルカが大阪へいった後、
デビュー小説の印税でアスカは経済的自立を果たし、
ハルカの働くことの意義は早くも失われることになる。


一方で、木綿子が陽介と離婚した理由は、
陽介にここまま付き合っていては
自分の描く社会復帰の夢が閉ざされてしまうからである。
当初の「家族のレストラン」も、
陽介が「男が夢を持った時は家族は応援するものだ」と
発言するように、夫―その他家族の主従関係に依るものだった。
木綿子はそれまで専業主婦として
一家の「マネージャー」として見事に役割を果たしていた。
だが、そこで自らの主体性が封じ込まれたことによって、
ついに離婚という形でそれを発揮させるのである。


陽介と木綿子の離婚後の水野家でのハルカの役割とは、
結局はそれまでの木綿子の役割の代理であったといえる。
ただし、陽介とハルカの関係は
それまでの木綿子との関係とは少し異なる。
陽介は娘に対する愛情はあるから、主従関係ではないのである。
ここに、両者の関係に主観的に幸せな関係が生まれる。
しかし、構造的には陽介がハルカに
イリイチがいうような「シャドウ・ワーク」を依存し、
またハルカも「家族のレストラン」に挫折した陽介を支えるという
共依存関係が生まれ、そして関係性が閉鎖的になるのである。


一方で、離婚後の木綿子は
ただ単に「男」並みに働くことに帰結したわけではなかった。
離婚後の木綿子の生活は仕事一筋であり、
結局は、専業主婦と同じ男性的企業社会の下で
「男」並みに働くことに帰結されてしまいかねない。
しかし、そこで青木健二と出会い同棲する関係になることで、
互いの「個」を尊重する関係性を構築していた。
ハルカはその2人のいる部屋にやってきて共同生活を始めるが、
アスカの経済的自立、
そして木綿子―健二の標準的でない家庭像を目の当たりにし、
彼女にとってのアイデンティティの危機が訪れるのである。


ハルカはその中で経済的自立を果たしていく結果、
自らの「個」の尊厳を見出すが、
そのことでそれまで対抗的だった木綿子に対し、
次第に共感的になっていく。
一方で、陽介との共依存的な関係性に疑問を持つのである。
「お父さんは逃げている」と陽一に非難するのも、
その結果であるということができる。


やがて、ハルカは故郷の湯布院に戻り、観光協会で再就職をした。
その頃、幼馴染である正巳と結婚前提の交際をし始める。
ただし、正巳との関係性は閉鎖的なものだった。
ハルカにとって憧れは自分が「お嫁さん」になることだった。
だが、そのジェンダー意識が正巳への抑圧的な態度となり、
正巳は期待される「男らしさ」、「夫らしさ」に
押しつぶされ、結納当日の逃亡へとつながるのである。
この経験が「お嫁さん」への憧れにおける「敗北」である。


一方で対照的なのが、アスカである。
アスカは「できちゃった結婚」をし子どもを産んだ。
だが、この子どもの存在は生殖家族への外圧である。
それまで家族から距離を置いてきたアスカにとって、
「家族のレストラン」の再起への大きなきっかけとなる。


同じころ、ハルカは猿丸と出会っていた。
というか、猿丸とは至るところで出会っていたが、
その存在は大きなものではなかった。
ただ、「お嫁さん」への憧れの「敗北」と同時に、
湯布院の地域住民との繋がりやアスカの出産といった
ハルカの親密な関係性の意識の変容がきっかけとなり、
猿丸がハルカ自身の存在を確かめる重要な他者となっていく。


猿丸とは、両親から捨てられ家族とは無縁な存在だった。
およそ、家族を夢見ていたハルカにとって、
一家が由緒ある旅館である正巳と違い、
猿丸は同一化できない存在である。
しかし、それが猿丸との距離感の意識につながり、
猿丸の人生観に共感的になり、やがて2人は結婚に至る。
また、この親密性への内なる転換こそ、
ハルカにとっての「家族のレストラン」の再建になる。


最後に、木綿子と陽介の関係についてである。
木綿子は体調を崩して湯布院へ帰ってきたが、
健二も木綿子を追って湯布院までやってきた。
この時、陽介は再婚によって「家族のレストラン」を
再建する夢をあきらめる。
そして、陽介の後押しによって、
異動になる健二を追ってロンドンへ旅立つ。
しかし、その別れが2人の関係の崩壊を意味したわけではなかった。
ハルカはレストランの開店1周年を記念し
アスカと木綿子をレストランへ呼び4人で共通の食卓を囲むが、
2人の離婚以前では会話がはずまなかった食卓も、
この頃の方がずっと親密なコミュニケーションが成り立つ。
家族とは役割関係によって拘束されるものに限らない。
離れてても何があってもつながっている、
そういう関係こそ家族なのだということを認識した時、
木綿子と陽介にとっての「家族のレストラン」は再建される。


またそこで注目すべきセリフもある。
木綿子をロンドンへ送り出すときの陽介の発言である。
「俺はもう俺だけであのレストランをやっていける。
あの頃とは違う。誰も君を必要としていない。」
この発言は表面的に読めば、木綿子を突き放すような内容である。
しかし、俺だけでレストランをやっていけるということも、
一人でレストランを経営していくというわけではない。
むしろそういきがっていたのは、「あの頃」の陽介である。
妻である木綿子の支えなしにやれなかった「あの頃」の自分と違い
今の自分は木綿子の自由を拘束することはない。
今の自分は地域のいろんな人の支えがあって
レストランを経営することができている。
だからこそ、木綿子を拘束する必要はなく尊重する、
ということが発言の真意であると考えることができる。
木綿子のように、あるいは「きみはペット」のスミレのように、
女性が企業社会の中で生きていくのは、
男性性の鎧をかぶれば可能である。
しかし、脱サラをして男性的企業社会の外部で生きていくことは
男性にとっては難しいことである。
たとえ「主婦化」したとしても、
地域のネットワークが十分にない中で生き抜くには困難を伴う。
だがそれでも、陽介は地域にネットワークを築いていくことで
家族の関係性は次第に開放的なものとなっていき、
「家族のレストラン」も
「ゆうこ」から「風のレストラン」への変容が実現するのである。


さて、水野家の家族の二層性に立ち戻ったとき、
物語のスポットとして、家族の性格が
まず木綿子と陽介が主体の生殖家族に当たり、
次にハルカとアスカにとっての定位家族にそれが移り、
そして4人それぞれの生殖家族へと変化する様子がうかがえる。
物語の発端である生殖家族、つまり木綿子と陽介の関係性は
できちゃった結婚」をきっかけとし、
陽介は外で商社マンとして、木綿子は専業主婦として
性別役割分業が確立されていく。
ハルカとアスカにとっての定位家族としての水野家は、
そこから「家族のレストラン」構想へと至り、
そして離婚、父子家庭へと至り、
まさにしがらみとしての家族の側面が露わとなっていく。
その後、4人それぞれが自らの生殖家族へと移行するが、
それはそれぞれの「個」が尊重されたものだった。
またその中で、しがらみだった4人の家族も、
「風のレストラン」として「家族のレストラン」が再建され
絆としての家族へと変化していくのである。
昨年映画化もされた瀬尾まいこの『幸福な食卓』でも、
離婚という段階にまでは至っていないし、
最終的に散り散りになった一家は再び結束するものの、
同様の問題意識として背景に存在する新しい視点である。


ただし、その絆としての家族が、
今度はハルカとアスカの子どもたちにとって
どういう意味付けがなされるかについては
本作では描かれていない。
そこが非常に残念なところであることは忘れてはならない。
しかし、それでも離婚という家族にとっての不幸が
必ずしも家族の解体へと向かわず、
それがそれまでの家族のさまざまな矛盾を浮き彫りにし、
家族の新しい関係性への転換の始まりとなるということが
作品中で一貫したテーマであり、その点を提示できたことで、
風のハルカ」が画期的であるということができるのである。

マイ☆ボス マイ☆ヒーロー

マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」は
2006年の7月〜9月に日本テレビ系列土曜21時台に放映された。
同時間帯は続く「エンタの神様」の影響もあり、
特に若い世代をターゲットにしたドラマが制作される傾向がある。
たとえば、「1ポンドの神様」の亀梨和也のように
ジャニーズ系の役者を主役に抜擢することも多いし、
またテーマも学園ものが多くみられる。
本作品も主演に長瀬智也、ヒロインに新垣結衣を据え、
また舞台も高校であるなど、
ターゲットとして中高生をはじめとした若年層を
かなり意識していたものと思われる。


本作は、韓国の映画「頭師父一體」を原作とするものであるが
そのストーリー展開は、大森らしく、
まったく異なるものであるといえる。
両作品では「学校を取り戻す」ということが
ストーリーの核となっていくわけだが、
原作が荒れ果てた学校の根源にある悪徳校長と闘っていくのに対し
本作品ではそんな描写が一切ない。
「学校を取り戻す」といっても
アクション映画である原作が暴力シーンを多く用いるのに対し、
本作品では学級委員として説得をしていくシーンが多い。
前者がまさに男たる男としてのアクションの作品なのであれば、
後者は説得というコミュニケーションを通して描き、
青春や恋愛といったテーマで広く受け入れられやすい作品である。


さて、物語の舞台はヤクザと高校である。
ヤクザの若頭である榊真喜男(長瀬)はバカである。
計算もできなければ90秒以上思考ができない。
しかしそのせいで闇取引に失敗し、
父である組長(市村正親)に激怒される。
そして父は真喜男に高校卒業をしなければ次期組長を指名しない、
弟(黄川田)に継がせると言い渡すのである。


こうして真喜男は高校に年齢を10歳偽り
17歳として高3として編入学するのであるが、
こんなことは現実世界にありえるはずもない。
あまりにも現実とかけ離れたストーリーなのだが、
その虚構性の裏には現実世界に通じるメッセージがもちろんある。


前述のように本作品で主に基軸となる対比構造は
学ぶことを規定するのは家族や友人といった絆か、
それとも進学・企業社会といったキャリアかといったものである。
つまり、ヤクザの若頭が年齢を偽って高校生になる、
という現実にはあり得ないストーリー構成にあっても、
ヤクザとは真喜男にとってのキャリアなのであり、
また真喜男以外の生徒にとっても
学校の価値とは進学のためのものか、青春を謳歌するものか、
という対比構図が見られる。
真喜男が組長になる(キャリアの)ために
卒業をする、そのために勉強をするという目標を持っていたのが、
物語が展開されるに従って、学ぶことのよろこび、
友達と過ごす学校生活の楽しさを学んでいくにつれ、
真喜男らとその他の生徒の間で、
学校とはどういうものか、学ぶこととは何の意味があるのか、
ということにおいて、対立構造が生まれていくのである。


一方で、榊家の中にも対立構造が生まれていく。
当初の父子関係は、ただの組長と若頭の関係でしかなかった。
母は真喜男のことをとても心配していたが、死んでしまった。
真喜男は父のことをボスとして尊敬し、
父も若頭として真喜男のことを信頼していた。
いわば、当初の父子関係は上司と部下の関係だったのである。
しかし、父は父親として父親らしいことをしてこなかったことを
悔やんでいた。
だからこそ、朝食は家族で食卓を囲もうと提案するのである。
(「風のハルカ」と同じ問題意識が背後にあることがわかる。)
やがて真喜男が学校生活になじみ楽しむようになると、
父と子の間のコミュニケーションも親密になっていく。
それと正反対に弟の美喜男は、
真喜男が暴力では誰にも負けないのに対し
成績ではだれにも負けなかった。
ただ、真喜男が高校で徐々に知識を増やす一方で
暴力性の面で真喜男らしくなくなっていく姿を見て、
自らも組の仕事にかかわるようになっていく。
同じ学ぶことと仕事をすることの文脈においても、
真喜男がキャリアや組のための意味付けから
喜びや幸せといった方向へシフトしていくのに対し、
自らの教養のために勉強を続けていた美喜男は
組のためを思い仕事や勉強を意味づけるようにシフトしていく。
学ぶことや仕事をすることの意味についても、
真喜男と美喜男にストーリー上の対立性か見られるのである。


さて、高校に無事編入学できた真喜男だったが、
組の若頭でそれまで誰にも暴力で負けなかったにもかかわらず、
人生初めてかつあげに遭ったり、
馬鹿と周囲に言われるなど、プライドはずたずたになっていく。
また、組ではこれまで舎弟から慕われていたリーダーシップも
その自信から学級委員に立候補するものの、
クラスメートは極めて非協力であった。
こうしてそれまでの彼の暴力性やリーダーシップという
アイデンティティは早くも危機を迎えるのである。


彼のアイデンティティの危機はそれだけではなかった。
恋愛に関してもそうである。
それまで彼は「女に関しては百戦錬磨」だった。
しかし、ひかり(新垣)に恋するようになると、
動揺してそれまでの姿勢ではいられなくなった。
たとえば、肝試しで逃げだし「男として最低」と言われたり、
それまで「男は構えてろ、要は余裕だ」と言うほどだった
デートに関しても、
そばにいたい、守ってやりたい、笑顔が見たい、
というような姿勢に変化する。
また、過去のトラウマから暴力が嫌いなひかりに対し、
ひかりの前でチンピラに街で襲われた時にも暴力で抵抗できず、
結局は「やっぱり付き合えない」という結論に至るのである。
まさにそれは、百戦錬磨であった真喜男にとって
すべてが初めての経験であった。


勉強すること、学ぶことについてもそうである。
編入して最初の定期試験は、
テストを盗んだり先生を買収しようとしたりするが失敗する。
結果最下位になり、担任の南(香椎由宇)に
スパルタで補習を受けさせられることになる。
南は真喜男が「鉄仮面」と命名するように
真面目で熱心で感情が希薄なのだが、
その熱心さと感情の希薄さゆえに、
あまりに物分かりの悪い真喜男に対し厳しく接するのである。
その厳しさ、熱心さの中で、
真喜男は勉強から逃げだしたりするなど、
なぜ勉強をしなければならないのかと悩む。


しかしその中にあって、友人関係では桜小路(手越祐也)と、
アグネスプリンの争奪をめぐり意気投合し、
また体育祭では他にひかり、萩原(村川)、奥本(佐藤千亜妃)と
チームを組み勝ったことが転機となって、
次第に仲間とともに学校生活を楽しむことを覚えていく。
やがて真喜男はチンプンカンプンでも知ることの楽しさを知っていく。


こうした真喜男の学ぶことへの姿勢が、
学校の周囲の人物の感情を変化させていく。
クラスメートはほとんど受験一色ムードだった。
体育祭も文化祭も関心なし。
ストレスがたまり乱闘も起きそうになる。
しかし、学級委員としての真喜男は「組のために」、
クラスメートの説得に尽力する。
そして最後にはクラスを一丸としてまとめていくのである。
こうして、彼にとっての学ぶことの上で楽しいことの比重が
高まっていくのである。


彼にとっての学ぶ本来の目的、組を継ぐための卒業の夢は
しかし、乱闘騒ぎに加担したことで潰えてしまう。
敵対する熊田一家が学校に殴りこみに来たとき、
熊田一家はヤクザと何の関係もない学校関係者へも
暴力を振るおうとする。
真喜男は学校を守るため熊田一家と激しい乱闘をする。
しかし結局は警察によって暴動は抑えられ、
真喜男は拘置所に送られ、学校も退学になる。
卒業直前で、彼の夢は断たれるのである。
しかし、それでも彼は組のための卒業ができなかったことに
未練はなかった。
むしろ、仲間と一緒に卒業できなかったことを悔やんだ。
この出来事は彼の夢の「敗北」であったのである。


だが卒業式当日、卒業できない真喜男を桜小路らは学校へ連れ出す。
クラスにとってのマッキーはヤクザの真喜男ではなく
やはり学級委員としてのマッキーであったのである。
真喜男は真の卒業証書は受け取れなかったが、
クラスの「卒業証書」を南から送られたのである。
このことで、結局は家業を継ぐことに成功するのである。
だが、それは真喜男か美喜男かどちらかが継ぐというのではない。
兄弟は性格も長所も全く異なるが、
それを対立として考えるのでなく、
役割分担として、互いがないところを補うように考えを変えた。
当初は、真喜男は一人で組を背負わなければならなかった。
だが、今では信頼する舎弟の存在もあれば、弟の知性もある。
真喜男は孤独なヤクザのリーダーとしての役割から解放され、
精神的中心としてのヒーローに生まれ変わったのである。


本作の最後のシーンで、舎弟のカズ(田中聖)は
「なぜ人は学ぶんでしょうか?」と問いかける。
作品中でその答えは提示されないが、
一連の真喜男を中心としたストーリー展開から考えれば
学校を楽しむこと、学ぶことを楽しむことこそが
人を学ばせるのではないかということである。
作品中でそのキーポイントとなる小道具として、
「アグネスプリン」やひかりの勝負ペンが出てくる。
アグネスプリンは昼休みの限定プリンとして
その争奪戦が一つの学校生活のガス抜きになっているのだが、
プリンを手に入れられるか否かはどうでもいいのである。
その争奪戦を楽しむということこそが重要である。
またひかりの勝負ペンについても、
それは真喜男にとって恋する存在のひかりのものであるからこそ
意味のあるものなのである。


キャリアのために学ぶこととは、
未来の不安のためにこそ学ぶのである。
たとえば、この大学に入らなければいい就職先はない、など。
だが、はたしてその大学に入ったからといって
いい就職先にありつけるかというとそうでもない。
一方で、今を楽しむこととは希望あってのことである。
これは第6話での真喜男のセリフである。
「大人になったらわかるけどよ、(と思うけど)
大人になったらクラスメートなんていねーぞ。
だましだまされ駆け引きして、しゃらくせーしがらみばっかだよ。
でも俺たちはさ、クラスメートだよ。
一緒に青春を楽しむ、どうでもいい仲間だよ。
そんな俺たちがさ、そんな自由な俺たちが、
せっかくの今を楽しまなきゃどうすんだよ、コノヤロー。
みんなで楽しもうよ。みんなでがんばろうよ。
俺たちはさ、顔も性格も成績も全然違うけど、
みんな未来が見えなくてもがいても同じ仲間なんだよ。」
学ぶことについての不安と未来についての大森の問題意識は、
今クールの「エジソンの母」に引き継がれている。


だが、本作の意義深いところは、
結末としてみんなクラスが仲良くなった、めでたしめでたし、
で終わるわけではないということである。
クラスでの行事、クラスメートは一つの通過点でしかない。
高校という3年間は誰しも一度しか許されていない。
高校を卒業すればまた違う世界がそれぞれに待っている。
それを象徴するのが、最後のひかりの真喜男への告白である。
「いつか私がもっと大人になったらまたデートできるかな」と
ひかりが真喜男に言うと、真喜男は
「梅村さんが大人になったらいい女になりすぎて
僕とつりあいそうもありません。
でも、でもいつかきっと。
でもそろそろ、桜小路の気持ちもわかってくださいよ。」と返す。
桜小路がひかりのことを好きだったことを
真喜男が気づいていたからこそのセリフだったかもしれないが、
このセリフの意味することは、
二人のその後の世界は違う中で、現実を見つめ、
またそこから希望を見出さなければならない、ということの
メッセージ性をくみ取ることができるのではないか。


これは「プロポーズ大作戦」のタイムスリップとも重なるのだが、
青春や青い恋愛といったものを想像するに、
私たちはそれを永遠化しがちなのである。
そしてだからこそ、「プロポーズ大作戦」の健は
後悔の要因を一つ一つつぶし現実を思い通りに変えるため、
タイムスリップをしたのであった。
だが、「プロポーズ大作戦」の妖精の言葉にあるように、
過去を変えようという努力よりも
今未来に向かって自分が変えていく努力の方が大事なのである。
マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」における、希望の重要性も
結局はその「プロポーズ大作戦」と同じように、
今、未来に向って希望を持つことの重要性を意味するのである。
その中で、「マイ☆ボス〜」の描き出した独自性とは、
関係性とは永遠ではないということ、
関係性そのものも自ら希望を持って築き上げることができる、
ということなのである。
だからこそ、幼馴染であったひかりと桜小路の関係性に
光を与える可能性を残して結末を迎えたともいえる。


そして、本作においてヒーローとは
真喜男だけを示すのではないのである。
桜小路であっても、ヒーローになりうるわけである。
今一度議論を学ぶこととは何かということに戻せば、
これをヒーローになるにはどうすればいいかということにも
読み替えることができるのである。
いわば、私たちはヒーローになるために、
体を鍛え、頭を鍛え、対人能力を鍛えるのである。
だが、がむしゃらにがんばったところで、
必ずしもヒーローになれるとは限らない。
だからこそ、日常の楽しさから、誰かのために、何かのために、
頑張るという希望を見出していく必要がある。
それこそが、ヒーローになるということなのである。
そして、それは誰でもできることなのである。
本作はこのように虚構性にドラマの結末を終始させなかった、
自らにできることは何か、ということを
視聴者側に訴えかけたからこそ、
画期的であるということができるのである。

*1: wikipediaきみはペット」(2008年1月15日アクセス)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AF%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88 参照。

*2: ただし、ドイツに行かなかったことでモモはどうなったかについて、本作では描かれておらず、その点が本作の描写で不十分な点であると認めることができる。