ムスリムに学ぶ。酒の場を楽しめるのは、何のおかげか

バングラデシュから帰ってきて、1ヶ月が経つ。
にもかかわらず、現地で調子が悪くなった胃腸が
未だに言うことを聞いてくれない。
医者は感染症ではないのだと言う。
けれども、症状がはっきりせず、
薬を飲んでも完璧に回復しない中で、
本当に、体力的に疲弊している。
とにかく、便所に行く機会が多いから
まともな日常生活をしている人に迷惑を少なからずかけているし、
それに食事もまともに胃腸が受け付けてくれない。
そして、酒を飲んでも、うまいと感じられないし、
普段飲めていた深さまで酒を飲むことができない。


そんな苦しさの中に自分が今ある中で、
バングラデシュ漬けだったこの3ヶ月間、
いったい自分は何をしていたんだろうと思う。
バングラデシュに2週間ほど、二度目に行って
もちろん考えたことはいろいろあるのだが、
あれほどまでに、一人の人間として
心や頭、体を動かさせられる国は、
世界中どこを探してもない。
そんな環境を離れ、日常の平和な日本に帰ってくる。
すると、日本の環境がいかにつまらないものなのかを
実感させられる。
いや、日本の環境がつまらないのは間違いだ。
日本の環境にいる自分がつまらないのか。


バングラデシュムスリムの国。
当然のことながら、ムスリムたちは酒を飲まない。
だから、あの国に行けば、
人とのコミュニケーションの手段は、茶である。


イスラームの勉強をすれば、必ずと言ってよいほど、
イスラームの解説本に、
ムスリムたちは酒を飲まないで楽しくないのか?」
というようなことが書かれている。
もちろん、楽しくないわけではない。
多文化主義的な観点から考えてみれば当然のことだが、
酒の文化は酒の文化に、茶の文化には茶の文化に、
それぞれ楽しみがあるのであり、こだわりがあるのであり、
また、そこに宗教的なスタンス、寛容性はあるべきものである。
したがって、ムスリムたちが
宗教的立場から酒を飲めないのだとしても、
彼らには彼らなりに、茶(コーヒー)を飲み
コミュニケーションを楽しむ文化を持っているのであり、
彼らは彼らなりの方法で、つまり文化で、
コミュニケーションを十分に楽しんでいる。


他文化下に行って、そして帰ってくると
いつものように、自文化についてとても考えさせられる。
そして、イギリスに行ったとき同様(過去にこのブログで書いたが)、
日本の酒の文化には本当に考えさせられる。


とりあえず、イギリスから帰ってきたときと
同じように考えさせられたことは省略させてもらう。
その上で。
日本の酒の文化は、なぜ理性をつぶしてまで
コミュニケーションを充足させることを求めるのか。
イギリスのパブでは、いやイギリスだけではなく欧米の多くでは、
泥酔はタブーだ。
酒を飲むのは、当然OKだ。
しかし、酔いつぶれてはいけないのである。
だが、日本の酒文化では、酔いつぶれないといけない。
もちろん、あらゆる飲酒シーンでそうなのかというと、
まったくそうではないのだが。
しかし、必ずと言っていいほど、
素面(シラフ)のときとは違う人格を表すことを求められる。


日本の酒の文化があらためていいなぁと思うのは、
そうして素面とは違う人格をお互い表すことで、
裏の世界を作り上げることができることである。
愚痴というものが欧米やイスラムの世界に存在するのかは知らないが、
酒の席で、お互いの愚痴を言い合い、
あるいは上司が部下の愚痴を聞き慰めるというような関係を築け、
そのおかげで表の世界での円滑なコミュニケーションが成り立つと思うと、
やはり、日本の酒の文化がすばらしいなぁと思わざるをえないのである。


しかし、酒は時に暴力ともなるわけである。
というか、アルハラがどうのという問題は置いておくとしても、
酒の力によって理性を失うことによって、
コミュニケーションの相手が望まないことをすることは大いにあるわけである。
そもそも、理性を失い、判断能力を失えば、
相手が何を望んでいるのか、相手がどのような人なのかということを
考えることができなくなるからだ。
もちろん、誰と誰という垣根を越えて人間同士一体となれるという側面もあって、
それがいい部分なんだという人もいるのかもしれないが、
酒を飲まなければそういうことができないのはどうかと思うし、
つまり、そのために酒に頼っている人間の弱さをひしひしと感じるわけである。


はっきり言うと、あくまで個人的に、
私は、そうやって酒を飲んで理性を失って、
その場にいる人間と一心同体になるということは苦手なのだ。
いや、苦手というか、得意だとしても、苦手だとしても、好まないのだ。
例えば非常に具体的なことを言えば、
飲み会で、トランプをする。
その意味がまったくわからない。
なぜ、飲み会でトランプでないといけないのか?
トランプをするのに、酒がいるのか?
そこまでトランプをしたいなら、酒を飲まなくてもいいじゃないか。
そう思うのだが、しかしそれが残念なことに、
ある種、日本の酒の文化によるものであることは事実として仕方のないことだ。


さらに言えば、私は酒を飲んでつぶれることができない。
自慢ではないが、普段の私は人並み以上にはアルコールに強い。
たぶん、一般的な飲み会程度でつぶれることはありえない。
だが、深酒をしても、つぶれられないのだ。
つぶれるほど飲もうとしても、つぶれられない。
たぶん、飲んでる自分のどこかにブレーキがあって
それがいつも作用しているからなのだろうけれども、
一人で飲んでいるときもつぶれたことはないから、
人前だろうが、一人だろうが、
そのブレーキがいつもあることは間違いない。
飲んで吐くのは、内臓の体調の限界によるときだけだ。
決してそれは飲みつぶれているわけではないわけである。
そして、そのために、
飲んでも、大して人格が変わらない、というのか、変われない。


などと述べてみたが、
よく考えてみれば、こうしたことを考えることそのものが、
ある意味で、日本の酒の文化に浸かっている証拠なのかもしれない。
日本の酒の文化には、
日本の文化の独特な人間関係に基づくルールがいろいろある。
その人間関係といっても、先輩と後輩、取引先と自分の会社…
などなどのような関係にとどまることを言いたいわけではない。
とにかく、酒そのものを楽しむ前に、そういう人との関係を
異常に気にしすぎているような気もするわけである。
純粋に酒の席を楽しみたいのなら、
相手が誰であろうと、酒との関係は対等なはずにもかかわらずである。
その純粋なる酒の楽しみの以前に、
日常の人間関係がどのようなものかということを、
日本の酒の文化はやはりどうしても意識させているようである。


純粋に酒の席を楽しむにはどうすればいいのか?
酒を飲めないムスリムたちが教えてくれるのは、
酩酊感を、酒という刺激の強い物に頼らずに楽しむことである。
彼らは、茶(コーヒー)だけで、何時間も話し続けている。
もちろん、茶を飲んで、日常の人格と異なる人格を演出はできない。
しかしそれをしないでも、
とにかく、コミュニケーションを、
茶を飲んで、心を落ち着けることによって、
楽しむことができているわけだ。
そして、それだけでも、何時間でも話を続けられている。
その姿を見るや、体験するや、
酒がなくては人間関係を構築できないというものなど、
単なる日本の酒の文化の中での思考によるものに
すぎないということを思わさせてくれるわけである。


とすれば、いっそのこと、
酒の席で、酒を飲まないというのはどうなのか。
酒の席でこそ、酒を飲まない。
どう見ても、空気の読めないやつだ。
とはいえ、昨今のアルコール禁忌の流れの強まりからも、
酒の席で酒を飲まないというのは、認められる場面が増えている。
そこを、あえて実行する。
酒が飲めるにもかかわらず、実行するのである。


あえて実行したわけではないのだが、
昨日ちょうど飲み会があって参加してきたわけである。
これまで大学入学以降の自分は、
酒の席では必ずアルコールを摂取していた。
それが今回、帰国後の胃腸の調子の悪さから、
初めて、ウーロン茶で飲み会を楽しまざるを得なくなった。
だが、そこでなぜか、
アルコールを摂取していない自分が、
なぜか、酒の席を楽しめているということに気づいたわけである。
いや、それだけでなく、日常の自分ではあまりしないこと、話さないことを、
後で思い返せば、し、話していたわけである。


とすれば、
もしかすると、酒の本来の楽しみを奪っているのは、
実は酒そのものなのかもしれないわけである。
というのは、酒と言う文化を気にするあまり、
酒というものそのものを楽しむことができないのではないかと思うからだ。
つまり、酒の楽しみを楽しもうとする自分を、
あきらかに酒の文化が妨害しているのである。


けれども、間違えてはいけないのは、
文化というものは、コミュニケーションのために
それを受け入れることを避けて通れないということを、
忘れてはならないということだ。
だとすれば、
結局、酒の文化をうまくすりぬけつつ、
酒そのものの良さを楽しもうと、あえて、考えようともせず、
ただ純粋に、その場を楽しもうとするということによってこそ、
本当に酒というものを楽しむことができるのかもしれない。


先ほどあげた、昨日の飲み会の後に、
また別の飲み会に参加した。
それは、割りとよくお互いを知った仲の飲み会だった。
だが、そこでお互いがお互いをどう思っているのか、
その場にいない誰かをお互いがどう思っているか、などなど、
気楽に、忌憚なく話せたし、聞けたのである。
別に、私が酒を飲めなくても、
まぁ酔ったやつが若干強制してくることはあったが、
それでも、飲めないことで気まずくなることもなかったし、
場の空気が悪くなることは決してなかったわけである。
反対に、酔いつぶれる限界に近いやつに対しても
その場にいたメンバーは皆、悪く言う、感じる人間は皆無だった。
間違いなくその空間で私たちは、
その酒の場を、各自酒をどれだけ飲んだかの量にかかわらず、
楽しむことができていたのである。


コミュニケーション媒体としての酒を楽しむ上で大事なことは、
決して、酒そのものによって得られるわけではなく、
文化によって楽しめるものでもない。
確かに、ルール・礼儀を守るのが最低限必要としても、
ともかく、酒を飲んでいるその場を楽しめるということによってこそ、
酒を楽しむことができるのであるのだ。
いやしくも、このような酒についてのことを、
今、バングラデシュで悪くした体調の中で、
酒を飲めないバングラデシュムスリムたちとの
茶を通したコミュニケーションの経験によってこそ、
考えることができている。
結局、コミュニケーションの場を楽しめるのは、
酒のおかげでもなく、茶のおかげでもなく、
相手のことを過剰に気にせず、ありのままの自分でいながら、
何に頼ることもなく、その場を自分が楽しめているかどうか
ということに、かかっているのである。