なぜ二校地間をわざわざ歩くのか――二校地間徒歩通学イベントの意義

mzkyrhjmy2007-10-28


今日は一日、二校地間徒歩通学イベントに参加してきた。
うちの大学といえば田辺と今出川(と学研都市)に
キャンパスが分かれており、
その両校地間は35km近く離れているとされるが、
その間を徒歩で通学してみよう、という、
何ともお馬鹿な(失礼!)企画である。


とはいえ、この企画も今回で6回目を迎えるが、
毎回、大学関係者の人が参加するほど、
大学としても意義のあるイベントでもある。
今年は学生支援課の職員の方一人であったが、
前々回(前々々回?)はうちの学部の元社長の先生が参加されたというし、
案外お馬鹿なと言いつつ、馬鹿にはできないイベントである。


実を言うと私もこのイベントには、そうした性格もあって、
今まで参加しようと思っていたが参加できずにいた。
それはもちろん、日程が合わなかったというのもあるが、
その前に、主催するサークルが一回途中で潰れたからでもある。
今年は復活して二回目になるのだが、
今年はうちの大学でおそらく最後の学生生活を向かえる一年となるだろうこと、
そしてもう一つ、一昨年、サークルのOBさんに
「二校地間徒歩通学イベントを復活させます」と
大口を叩き、その公約を果たせずにいたので、
それは不可能でも何とか最低限主催者側に関わって責任を果たしたかった思い、
こういった要因が、私をこのイベントに参加させたわけである。
ただし、その後者の動機はただ参加するだけでは意味がないから、
所属するサークルがその主催サークルに協力するという形で、
後輩主導で動き、私はその一員として働くことで役目を果たすこととなった。


なぜわざわざ二校地間を徒歩通学する必要があるのか。
もちろん、こんな「(いい意味で)お馬鹿な」イベントを主催し参加するのは
それなりの思いがあってこそのものである。
ただ、共通した意味がないわけでもないと思う。
それは、「みんなで踏破するという目標」ではないか。
ただ単に、両校地間を歩こうと思えば、一人でもできる。
だが、それこそそんな馬鹿馬鹿しいことをする人はいない。
なぜ馬鹿馬鹿しいと思うのかといえば、
達成感をひとしきりかみ締めるだけのイベントにはそれがなりえないからである。
みんなでそんな「お馬鹿な」ことを成し遂げれば、
それなりの達成感は感じることができるし、それだけではない、
その過程で新しい仲間を何人も得ることができるわけである。


もちろん、こんな「お馬鹿」なことなど、今でしかできないことである。
いやむしろ、やるなら今しかない。
その今でしかできないことができることこそ、
本当に恵まれた環境にあるんだと思わせてくれる。
二校地間徒歩通学イベントは、
まさにこの大学ならではの風潮を象徴するだけのイベントでもあると
参加した後、私は確信した。
このイベントはスポーツのイベントや学園祭に比べれば
まだまだ歴史は浅いものである。
しかし、これから先継続して開催していけば、
他の学生からも、それだけでない、社会からも、
この大学の学生主催イベントとして欠かせないものだと、
認められるようになるに違いない。

なぜ宮崎あおいはバングラデシュでスカーフをしなかったのか

私が今春にバングラデシュを訪問してから久しいが、
その中で、先日TBS・MBS系で
「未来の子どもたちへ〜地球の危機を救うお金の使い方」という番組がやっていて、
その中で宮崎兄妹がバングラデシュを訪問する様子が映されていた。
正直なところこのバングラデシュ訪問が宮崎あおいであった必要があったのかと思うが、
きっと彼女がチャリティーに参加した経緯もあるということで理解できる。


さて、この番組を見ていて些細だが気になる点があった。
(お決まりパターンで「貧しい」というイメージを強調していたのは置いておき、)
番組ではグラミン銀行の小規模融資が特に女性のエンパワーメントに
良い影響を与えているということを伝えたかったようである。
それはバングラデシュの開発援助において特徴づけられることだし、
ユヌスがノーベル賞を受賞しているにもかかわらず、
なかなか私たちはそうした情報を知りえないので、
それをより多くの人に伝えることの効果は期待できる。


気になる点というのはそういう内容上の話ではなく、宮崎あおいの”容姿”の問題である。
容姿といっても彼女そのものの容姿というわけではない。
彼女はもはや日本の若手女優の中でも抜きん出た演技力をもち
そしてそれと比例した「綺麗さ」や「美貌」は誰もが認めるところだろう。
今回はその容姿ではなく、彼女の旅姿であり、
なぜ彼女はスカーフをつけなかったかという点である。


これは非常に大きく気になる点である。
普通、女性のバックパッカー組であれ、現地滞在組であれ、
イスラム圏でスカーフやブルカをつけるのは、
地域のイスラム色の強弱にもよるが、常識である。
バングラデシュはというと、そのイスラム色は幅があり、
全身をすっぽりと覆ったブルカの女性もいれば、何もつけない女性もおり、
しかし大方の女性はスカーフを頭にかぶっている。
なぜスカーフやブルカを女性がかぶるのかということについては、
ここで詳しく説明することでないかもしれないが、
重要な点は、女性のジェンダー的問題ではなく、女性が身を守るという点である。
コーランでも、あるいは南インド特有のパルダの慣習においても、
その理由に相違が多少あるものの、女性は身を守るために肌を隠さなければならないとされる。


では、イスラム教信者でない女性ならそれは関係ないと思うかもしれないが、
それは逆の立場、つまり男性からの視点によって、その誤りが明らかになる。
女性が身を守らなければならないのは、
イスラムの性に対する考え方が自然には逆らわないということに基づいていて、
つまり男性の方の視点から見れば、”奇麗な”女性であれば”興奮”せざるをえないのである。
女性が「美しいところ」を特に隠さなければならないのは、
男性にとっても余計な悩みや、あるいはよもやの出来事を避けるためでもあるわけだ。
女性の側がいくらイスラム教信者でないからといって、
周りの圧倒的な数のイスラム教信者の男性からしてみれば迷惑なことだし、
また、その常識を知らない、あるいは無視することで、
旅行中のレイプなどの予期せぬ事故に巻き込まれるケースもあるほどである。


さて、宮崎あおいの話に戻るとする。
彼女はなぜその”美貌”を隠さなかったのかということである。
確かに世界ではその女性のスカーフやブルカが、差別であるという言説が圧倒しており、
テレビ局としては、日本でも視聴者の多くがそういう意見をもつ中で、
「教養番組」という性格上無視できなかったのだろう。
だがこの言説は、本来女性差別ジェンダー的側面にだけ着目されなければならないのが、
文化・宗教の面にまで及んでしまっているわけである。


くしくもこの番組ではグラミン銀行を取り上げるにあたり、
バングラデシュの女性が男性(特に夫)に虐待されるケースが後を絶たないとする。
この家庭内男尊女卑の問題は、番組ではここまでは取り上げられていないが、
宗教つまりコーランからというよりは、文化つまりパルダ(男女隔離制度)や
ダウリ(結婚持参金制度)から来ているようなものであるようである。
パルダは性的役割分業を規定し、貧困からの脱却において
貧しい女性が外に働きに出ることを阻んできた。
こうした文化や制度を乗り越え女性のエンパワーメントを図る目的もあって、
グラミン銀行をはじめとしたNGOの活動は行われているわけである。
こうした、現地の本当の姿を伝えるのであれば、
ジェンダー的側面と、文化・宗教的側面は切り離し、
宮崎あおいはその容姿を隠さなければならなかったのではないだろうか。


番組の全体としての趣旨は「地球を救うお金の使い方」とあり、
日本人にとって何気ない100円でも大きな価値をもつ地域もある。
だから、募金をしよう、あるいは自分たちは無駄にせず大切に使おう、
そんなことが視聴者に印象付けられるだろう。
しかし、私たち市民の立場からできる開発援助において大事なのは、
100円募金をしても全額その「貧しい」子どもたちに行くわけでない募金よりも、
募金をしようとしている相手がどんな人たちなのか、
どんな地域なのか、どんな状況なのか、といったことを知ることである。
私たちの募金などの行動の面はその上にあって初めて効果を生むわけである。


そう考えると、視聴者はこの番組から、
「よくイスラム教圏内では女性は肌を隠さなければならないというが、
宮崎あおいはなぜ肌を隠さなかったのだろう」という疑問が浮き出なければならない。
疑問と言っても、それで番組を批判せよということではない。
それがきっかけでなぜそうなのか、視聴者の立場から考えることも、
これは開発援助という点では非常に些細だが重要なことである。
一方で問題とならなければならないのは、
番組で「貧しい」子どもたちといった私たちの側からはありきたりなイメージを打ち出す一方、
現地では当たり前の女性が肌を隠す姿を出さないという構図をもとに、
この番組があたかも平然と放映されたことである。
そして、そうした構図をもととした番組からは、
私たちの日常に刺激を与えるようなきっかけにはなかなかなりえないだろう。
今回取り上げられた内容が、普段なじみ薄いバングラデシュという国であり、
またここで書いている私も完全に理解して書いていないほど
それがなかなか難解なイスラムの国であったがゆえに制作に工夫が必要であっただろう点、
非常に悔やまれる。

教育実習を振り返って その2

教育実習を経て学んだ点として大きく二点、
教授法に関連した事項と、教師としてのスタンスについての事項に分かれる。


まず、教授法に関連して、
第一に、その一時間の学級をいかに運営するかという問題がある。
生徒にも、出来不出来、理解度には差があるし、
また授業への参加度にも差がある。
授業という一つのドラマを作り上げるにあたり、
脚本家で監督である教師は、
いかにしてキャストである生徒を演じさせるか考えるにあたり、
生徒一人一人のその理解度や参加度を考慮しなければならないし、
もちろんそれを図らなければならない。
またその理解度や参加度も一定ではない。
机間巡視やテストを駆使しながら、
その状況について常に把握している必要がある。


第二に、授業づくりは生徒の立場に立ったものでなくてはならない。
教師の世界と生徒の世界は異なる。
教師の世界の中で自己完結した授業が、
生徒の世界で受け入れられるものではない。
あくまで授業の主人公は生徒である。
生徒が理解しやすい授業、関心をひく授業を目指す必要がある。
その上で、教師は生徒からの評価を参考にしながら、
柔軟な授業づくりをしていかなければならない。


また、教師のスタンスについて。
教師というものは、生徒に威厳ある態度を見せながら、
さまざまな指導をしていかなければならない一方で、
柔軟な姿勢を見せていかなければならない。
生徒に示す姿勢は、あくまでそのバランスの上に成り立つものであり、
どちらかに偏るものであってはならない。
各生徒の発達がまずあって、
その上に教師の存在があるのである。

教育実習を振り返って その1

教育実習を終え、
教師の仕事をわずかばかりだがさせていただいて思ったのは、
この仕事が想像以上にハードだなということである。
教師の仕事は、一般にイメージされるような
教壇に立つ仕事だけではない。
教えるためにはただ知識があるだけではなく、
教えるにはどうしたらいいか、
つまり授業づくりをしなければならないし、
そのための教材研究が必要である。
また、生徒への指導は教壇に立つだけではなく、
生徒指導や特別活動など多岐にわたる。
さらに、とりわけ私学において言えることだが、
「お客様」として受験生と新入生を獲得しなければならず、
そのために広報活動をしなければならない。
ここまでハードな仕事をこなすには、
体力も必要だし、精神力も必要である。


ではここまでハードな仕事を現場の教師たちはなぜできるのか。
それは、生徒を理解しよう、とか、
あるいは生徒に何かを伝えたい、など、
熱い教育的情熱があるからであろう。
もしそれがなければ、
学校経営に影響が出ることは勿論、
教材研究もなおざりになり授業づくりも適当になるし、
生徒も適切に発達しないことになりかねない。


教師の仕事がただ単なる「仕事」と違うのは、
生徒という子どもの発達に大きな影響を及ぼすからである。
教師の発言一つで、極端な話をすれば、
生徒は自殺をするかもしれないし、
逆に社会を統率する人間になるかもしれない。
授業づくり一つ工夫することで、
生徒はその科目に興味を持ってくれるかもしれないし、
逆に嫌いになるかもしれない。
その自覚さえあれば、すぐれた教師になるだろうし、
できなければ、まさに「反面教師」になる。
しかし、その自覚をすることこそが難しいことだし、
またプリンシパルな課題なのである。
つまり、教師が生徒を理解しようという姿勢を持つか持たないかで、
教育というものはいかようにもなるということである。


生徒の発達、つまり人間にかかわる仕事である以上、
教師の仕事に答えはない。
それは、単に数字を追えばいい仕事とは違うし、
とりわけ教育産業とは大きく異なる性質をもつ。
教師は常に答えを探して仕事をしていくこととなるが、
決してその答えは定年退職まで出ることはない。
ましてや、今ここで見つけた答えが、
来年同じであるとも限らない。
こうして自分なりの答えを、生徒理解の過程で常に探していくことこそ、
教師の仕事の本質なのである。
常にその答えに飽くことなく立ち向かい、
常に自分なりの納得できる答えを探し当てている者が、
優れた教師なのではないだろうか。

大学のゼミの意義について

今日は所属ゼミの面接に在学生代表として参加してきたのですが、
面白く思いつつ、しかしなかなかおもしろくなかったですね。


面白いなと思ったのは、面接に来ている学生が実に多彩で、
例えばある競技でインターハイ全国優勝した経験があったりとか、
自分の母校の非常勤の先生が違うところで教えていた学校出身の学生だったりとか、
まぁそんな感じなのですが。
人となりは多彩で刺激的でした。
しかし、志望動機ですね、問題は。
志望動機を聞くと、必ず、決まりきった答えしか話してこない。
例えば「先生の交通の授業を聞いて交通に興味を持ってそれについて勉強してみたい」
「最近交通の役割は重要になってきていて、興味を持った」などなど。
私はそこで必ず、もう一歩突っ込んだ質問をするのですが、
例えば、前者であれば「交通のどんなことに興味を持ったのか」
後者であれば「交通のどんな役割が重要視されてきているのか」など。
もし、仮にその志望動機が本当だとするなら、
もちろんその答えは、前者であれば「鉄道です」とか簡素な答えをせずに、
「鉄道に乗っていて、いつも不便だと思うのです」とか答えればいいわけだし、
あるいは後者であれば、そういうことを自分から言うのであれば、
もうちょっと突っ込まれてもいいよう、新聞記事を参照したりして
自分でほんのちょっと勉強してくればいいだけの話です。


しかし、それがなぜ彼らはできないのかというと、
やはり、志望動機が曖昧なままだからなのだと思います。
仮にそれが二次募集であれ、
どうしてもこのゼミに入りたいというように思わせるような理論武装があるべきだし、
また、そういう準備を、うそでもいいから作ってくるべきです。
彼らがなぜそこまでしないのかというと、
「大学生はゼミに入らなければならない、じゃぁどこか入っておこう」
などという非常に中途半端な動機であるがためではないかと思われます。


大学とか学部によって違うのですが、
ゼミ、つまり演習というのは必ずしも必修ではなくて、
ここから「大学生はゼミに入らなければならない」という言い分は
成立しなくなります。
また、では「ゼミに入ってないと就職が不利になる」という言い分があるとすると、
いまや就職でも格差の時代であって、
ゼミに入ったからといって就職できるわけではないことを考えると、
これも成立しなくなるわけです。


ゼミというところは、どんな大学の環境であれ、
やはり自分が勉強するところだと思います。
決してそこは(あくまで副次的なものに過ぎない)友達を作る目的の場所ではないし、
またサークル感覚で参加するようなところでもない。
勉強の専門領域を同じくする者が、切磋琢磨しながら勉強していくところ、
そしてお互いに刺激を与え合い、また受けあうところだと思います。
したがって、ゼミは、中途半端に入ってくるようなところでもないし、
また、就職のための手段として使われるべきようなものでもないわけです。


当然、彼らのように中途半端な動機で入ってきて、
そして、特にそのなかでも中途半端にゼミの勉強をこなす人もいれば、
逆に、ゼミに対して強かろうと弱かろうと
しっかりと動機を持って入ってきている人もいる。
しかし、ここで擁護すべきことなのは、
本来的なゼミのあり方に立ち返れば当然後者なのであるべきなのではないでしょうか。
つまり、前者のような人によって後者の動機付けが低下することは
避けなければならないでしょうし、
また、ゼミの進行も、基礎知識のシェアから始まるのではなく
それ以前にゼミに対する動機付け作りから入ることで
後者の人がより発展的なレベルで勉強する環境を阻害させることは
あってはならないはずです。


しかし、やはり現状としてどうしてもここの前者の人が
ゼミに入ってくるのだとすれば、
やはりその原因としては、
①「動機がしっかりしていようがいまいがゼミに入らなければならない」とするイメージを煽っている何かがある
②ゼミに入る際にきちんとセレクションが行われていない
という二点が考えられると思います。


①については、大学のカリキュラムに問題があるわけではないわけです。
むしろ、学生のキャリア形成において間違った情報が流れていることが問題です。
あるいはその構造的な問題です。


②については、より一層セレクションが行われるべきです。
人数に比例して指導官も配置されなければならないわけですが、
それも予算的など問題で無理なのだとすれば、
結局、ゼミは必修ではなくなるわけです。
ゼミが必修ではなくなるということは、
ゼミがなくても卒業できるようになるということです。
セレクションする側は、ゼミの本来的な目的に立ち返った上で、
動機が曖昧な学生に対しては、
思い切ってセレクションをかけてもいいのではないかと思います。

堀北真希論 下(終) - 優等生美少女女優としての「堀北真希」〜メディアの映し出す「理想の女子生徒」としての堀北真希〜

ブラウン管の向こう側に映る芸能人は、
時に視聴者である私たちにとって憧れの存在となります。
自分から一方的に他者を承認したり、他者から一方的に自分を承認されたりという
「非対称」な人間関係においては、そのコミュニケーションから
私たちは憧れの「他者」とともに生きる喜びを与えられる、と長谷正人は指摘します。
グラビアもそのメディアの一つです。
グラビアを見て私たち読者はまたある種の「憧れ」を覚える。


先日、週刊少年マガジンにて堀北真希が特集されましたが、
その映し出され方が、学校で堀北真希と待ち合わせて、
堀北真希に料理を作ってもらって、
堀北真希とキャッチボールをして、
それで最後は??という流れだったのですが、
そうした映し出され方そのものにも、
主要読者層である少年少女の「憧れ」を煽る働きがある
ということができるかもしれません。


堀北真希がグラビアに映し出されると言うことは、
堀北真希=「優等生」美少女女優として映し出されていることからもわかるとおり、
まさに「クラスの鏡」の存在として、堀北真希が位置づけられることでもあります。
生徒からこうして鏡として扱われるとともに、
また教師からは、「優等生」は他生徒の模範として扱われる。
まさに学校文化の理想の生徒像であるといえるわけです。


私が注目したいのは、「優等生」「堀北真希」を通して、
いったいどんなイメージが流布されているかと言うことです。



マガジンの実際のグラビアを見てみると、強調されているのは、

  • 清潔感のある制服姿
  • 力強い大きな瞳
  • 健康感のあるなびく黒髪
  • 透き通るような白い肌

まずこうしたことが目につくわけです。
特に黒髪について、堀北真希は髪を染めたことがありませんし、
また、皆さんにとっても想像しにくいことでしょう。
「優等生」として映し出されているポイントは、
こうした清純さに表れているといえます。


そしてもう一つ強調されている点は、

  • 料理が得意
  • スポーツが得意

といったことであるわけです。
料理が得意と言うことは、まぁ女子には典型的であるわけですし、
またスポーツが得意と言う点に関しては、
健康的である、あるいはさわやかさ、ということをイメージさせます。


その他、一般的イメージとしては

  • 真面目

こういったことがイメージされるかと思いますが、
こうしたイメージと言うものは、
堀北真希の「堀北真希」というイメージから映し出されることであるわけです。


事実、プロフィールから「堀北真希」の成分、キャラクターを解析してみると、

  • 中学校の生徒会副会長を経験→真面目さ、素直さ、力強さ
  • 勉強好き→勉強ができるイメージ、真面目さ
  • 趣味は読書→教養、清純さ
  • スポーツがすき→健康的、力強さ
  • 特技はピアノ・料理→女子らしさ
  • 和食や浴衣が好き→和

このように、まさに堀北真希のプロフィールは、
堀北真希」のキャラクターから完全になりたっている、
むしろそれができすぎているかのようであるわけであります。



同時に、堀北真希がどういった作品に出ているのかと言うことも考えてみると、
ケータイ刑事銭形舞電車男、特に典型のクロサギ
真面目な優等生としての役柄であるわけですし、
また、逆境ナインは、優等生に加えて女子という成分も含まれた
野球部女子マネージャーという役柄である。
野ブタ。をプロデュース着信アリFinalはいじめられ役でありますが、
実はその中に真面目さが映し出されているわけですし、
(いじめのきっかけがいじめられていた親友を助けたことであったり、
いじめられている中で示唆深いことを友達に言ったりする役である。)
またALWAYS三丁目の夕日も一生懸命な新入社員の役である。
唯一例外なのは鉄板少女アカネ!!ですが、
その例外の作品が失敗に終わったことも考えると、
実に「堀北真希」というキャラクターが堀北真希をささえているのかが
よくわかるわけです。



堀北真希はこのように、
芸能人として、また優等生として、
同時に「憧れ」の対象であるということができますが、
なぜこの堀北真希がブレークしつつあるのかと言うことを考えなければなりません。
大物女優が数多く台頭した2006年にあって、
しかし、なぜ同世代の長澤まさみ沢尻エリカほど、
堀北真希はブレークしないのかと言うと、
実は、そのキャラクターがあまりにもできすぎているがために、
どこか反発があるからでもあるかもしれません。


事実、堀北真希について周りに好きかどうか聞いたところ、
あまり好きでないという意見が多くあがりますし、
加えて、特に女子から不評であるという事実もあります。


堀北真希」が映し出すイメージと言うものは、女子の優等生ですが、
しかしそのイメージは、女子らしさをも映し出すと言うことも
忘れてはならないことです。
女子らしさについての女子たち自身のイメージするところが、
近年女子たちの意見として真っ向から対立する、
「女子らしさに抵抗する仕事志向」と
「女子らしさに従順した家庭志向」のように分かれていることも考えると、
堀北真希は女子の間からは全般的に受け入れられるかと言うと、
まずここからはないと言わざるを得ないことがわかります。


しかし、堀北真希がそれでもブレークしようと言うのは、
いったいどういうことなのかというと、
やはり「理想の女子」に対し、それでも一定の需要があるからである、
ということなのではないでしょうか。
メディアを通した理想である芸能人に対し、
私たちは「憧れ」をもつ。
それはメディアによる「煽り」によって「憧れ」を持つのと一方で、
メディアの「煽り」を作り出す機能、
すなわち、メディア以前に私たちが「憧れ」を持っているからこそ、
そういう芸能人がブレークするのだと言うこと、
メディアを通したイメージ形成が再帰的であるからこそ、
そういうことができるわけです。


このように、堀北真希がブレークすることから
社会的な「理想の女子」に対する需要が高まっていることが推測できるわけです。
そして、同時に堀北真希の存在は、その鏡としての扱いであるといえるわけです。

琵琶湖環状線について

mzkyrhjmy2006-11-30

詳細を書く時間がないので、引き続いて、写真の説明だけでということで失礼。


今度は今年の11月上旬に乗ってきた様子。
北陸本線湖西線敦賀までの直流化工事が完了して、
新快速も福井県敦賀まで延伸することとなったわけです。
写真は、その新快速が終点敦賀に到着した直後の様子。
大量のお客さんが降りていく様子が見て取れると思います。


が、このほとんどのお客さん、
敦賀で引き返して再び京阪神地区に戻っていった様子。
せっかくの観光の呼び寄せも、
敦賀駅前はがらんとした様子だし、
敦賀港周辺の観光スポットも、土曜日なのにも関わらず人はまばら。


今後は、観光スポットとしてのアピールと同時に、
通勤路線として、敦賀京阪神地区の通勤圏に巻き込む形で、
琵琶湖環状線を活用していく方向性が求められている、といった印象でした。