「他者の他者」とはどういうことだったのか

大森美香論は実は散々だらだらと書いて未完なのだが、
とりあえずそれは置いておくとして。
ふとひらめいたことが、どうしても書き記しておきたかったことなので、
こちらを優先する。


じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)


鷲田清一の『じぶん・この不思議な存在』を読んでいて、
「他者の他者」という概念が出てきた。
社会学では、たとえばミードが自己の中の他者性について発見し、
自己をIとmeに分け、社会的対象としての「自我」であるmeを発見したわけである。
また、クーリーは他者とは「鏡としての自己」であるとし、
他者に移るイメージと自己との関係性を見出したわけである。
しかし、「他者の他者」とはどうしても理解ができなかった。
他者のための他者であるとすれば、
例えば、誰かのために働くということであったりとか、
好きな人のためにプレゼントをする、
社会のために奉仕する、といった役割関係に規定されたものを思い浮かぶ。
しかし、鷲田はそうではないとする。


「他者の他者」とはいったい何なのか。
例えば、学校を飛び出した子どもを母親が迎える際、
「私のことが嫌い?」と聞いて子どもが「うん」と答えたとき、
母親がどうやって返すのか。
鷲田は4つの例を挙げたが、そのうちビンタを食らわすケースと、
「そう言うけど、あなたは本当は私のことが好きなのよね」と言うケースの2つのうち、
後者は、まさに他者にとっての他者が死んだ(と書いてあったかは忘れたが)ケースであり、
前者こそが、「他者の他者」を体現したケースであるとした。
普通に考えれば、母親がすべき行動としては後者が当たり前であるのに、である。
鷲田は「他者の他者」について他にもいろいろ例を挙げているが、
どうしてもそれは理解が難しかった。


が、先に述べた社会学的な、関係性という視点を用いて考えてみると、
なんとなくわかってきたわけである。


例えば、自分のことばっかりを話す人がいるとする。
コミュニケーションとは、うちの大学の某先生ではないが
"You consideration"、つまり思いやりあってこそ成り立つものだが、
自分のことばかり話す人は、なぜ自分のことばかりを話すのか。
もちろん、思いやりがない人もいるだろう。
だが、そもそも思いやりとは何なのかということを理解していない人も
いるのかもしれない。


だが一方で、相手のことを考えすぎてもコミュニケーションは成立しない。
例えば、相手の好きな話題はなんだろうと考えすぎてしまい、
肝心の言葉や態度を示すことができない。
これは大森美香論でとりあげた「きみはペット」の当初のスミレのようなケースであるが、
そもそも自分の思っていること、考えていることを素直に相手に伝えられなければ
コミュニケーションは成立しないのである。


コミュニケーションとは、素直さが大事である。
だが、素直さとはなんだろうか。
「会話は楽しくなくちゃね!」とよくいうけれども、
楽しさとはいったい何なのか。
もちろん、鈴木謙介が言うような、「カーニバル」の楽しさ、
つまり、盛り上がれば楽しい、というような享楽性とは区別されるものである。
一瞬の享楽的な楽しさではない、素直な楽しさとはいったい何なのか。
つまり、素直さとはいったい何なのかということだが、
そういうことを考えることこそがナンセンスである、というのが、その答えである。


コミュニケーションとは、「そこにいること」を共有していなければ成しえない。
もちろん、コミュニケーションの形式は色々ある。
言語を通じたものもそうだろうが、
アイコンタクト、あるいはラッシュ時の満員電車の「しきたり」など、
なんでもいいのである。
例えばそのラッシュ時の満員電車の例であれば、
例えば電車の中ではリュックをしょっていては邪魔であるということも、
同じ満員電車に乗っていて、
邪魔なことをされたらただでさえ窮屈なのに余計に迷惑だ、
ということを、誰しも満員電車という場を共有し思いを一致させているからこそ、
その「しきたり」が成り立つわけである。
「そこにいること」を共有することとはそういったことである。


だが、その「しきたり」についていったい誰が考えるのか。
気にしだしたら仕方がないのである。
「なんで満員電車の中ではリュックを下ろさなければならないのか?」ということも
素直に、その「そこにいること」を共有する人間の一人の立場に立てば
わかることなのである。それが素直さなのではないか。


また、逆に「しきたり」に変に神経質になるのもあほくさい話である。
満員電車でもない、がらっがらの電車の中で、
周りを気にするあまり、かばんを下ろす、そんな人はいないわけである。
重いからとか、大事なものが入っているから、とかそういう理由なら別だ。
しょっていたら迷惑であろうと考えれば、
確かにきりがない。
駅に着いてその駅で駆け込み乗車をしようとする人にぶつかるかもしれないが、
そういった要素を挙げれば挙げるほど、きりがないわけである。
そして、それを考えれば考えるほど、神経質になればなるほど、
無駄な労力をそこに費やさなければならなくなるのだ。


満員電車の例は少しわかりづらいかもしれないので、
言語を用いたコミュニケーションに戻す。
その「しきたり」でいえば、昨今人気の「空気」という言葉である。
「空気を読む」ということは大事である。
だが、ここで疑問なのは、「空気を読む」ことをしすぎることは
果たして本当に意味があるのかということだ。
私たちは、「そこにいること」を共有していれば、
つまり言い換えれば、同じ「空気」を共有していればこそ、
いわゆるKYな発言、行動をしたくないと思う。それは当たり前である。
だが、KYな発言、行動を気にするあまり、気にしすぎたとき果たしてどうなるのか。
はっきり言って、その「空気」とは、何の意味もない言葉を連ねた、
本当に面白くない空気へと変貌するのではないか。


また、そのKYな発言、行動はどこから来るのかということである。
確かにそれは、本当にもともとKYな人なのかもしれないが、
KYな発言、行動をしてしまった自分を反省する背後には、
「空気」を汚したくないという強い思いがあるのではないか。
つまり、その思いが強ければ強いほど、
KYな発言、行動をしやすいのではないかということである。


だが、よく考えれば、繰り返しになるが
その「空気」を考えること自体が、実はナンセンスなのである。
だからこそ、素直にいればよい、何も無理をする必要はない、
それこそが、一番「空気を読む」ことに近い行動なのではないか、と考えられるわけである。


ただし、ここで断ると、
「空気を読む」ことにがんばることそのものがナンセンスであるとは言えないわけである。
時には、そういう行動も必要である。
例えば、「空気」そのものがないときである。
例えば、上司に気に入られたい、あるいは好きな子に振り向いてもらいたいというとき。
そういうときには、「空気を読む」こと、
つまり、相手の気に入るものとはなんだろうか、とかいうことを特に気にして、
「空気」を正常であらせる必要があるかもしれない。
しかし、それでも、一回上司に認めてもらえれば、あるいは好きな子に振り向いてもらえれば、
そういうことを考える必要はなくなるのではないか、ということなのである。
むしろ考えることによって、その関係性は危うくなるのではないか。
それは素直な関係、言い換えればギデンズのいう「純粋な関係性」が危うくなるからである。
考えすぎればすぎるほど、お互いの関係は共依存の関係へと陥るだろう。


だからといって、素直さが重要だからといって、思考停止にすればいいということでもない。
それではまさしく、「自由からの逃走」である。
一番大事なのは、関係性に対するコミットメントの視点を180度転換させることなのである。
つまり、これまでは自分を認めてもらうために関係性にコミットメントしていた。
もちろん、それは大事であるが、一旦関係性の基盤ができれば、
自己は「他者の他者」であればよいのではないかということである。


これを言い換えるために、これまでの考え方を提示する。
つまり、今まではコミットメントの図式が
「自分から相手を通してまた自分自身に帰る」関係性であったわけである。
「自分から相手を通して」というのがアクションで、
「相手から自分自身に帰ってきていた」っていうのが自分自身に対するイメージだった。
そうではなく、今言いたいのは、「純粋な関係性」が構築されたのならば、
「相手の視点から自分を通してまた相手に帰っていく」という逆転の発想、
つまり、「相手の視点から自分を通して」というのが自分自身に対するイメージであり、
「自分自身を通して相手に帰っていく」というのがアクションである関係性、
言い換えれば、自己と他者の関係性ではなく、
他者と「他者の他者」の関係性が必要なのではないかということなのだ。


つまり、自分自身のありようについても変化してくるのである。
私たちが「空気を読む」ことに神経質になっていたのは、
「空気」を壊したくないという強い思いからであった。
その要因は何なのか。
それは、自分がKYというレッテルをはられないためであり、
また裏返せば、自分の存在を危うくさせないため、
つまり、自分の存在を守るためだからなのである。
だが、よく考えれば、自分自身のキャラクターとは、自分が決めるものではないのである。
それは、クーリーの言うことからもわかるとおり、
他者とは「鏡に映った自己」である、
つまり、どんなに自分ががんばっても、
キャラクターを決定するのは、他者なのである。
しかし「自分を守る」ことにこだわらなければ、
つまり自分のキャラクターを決めるのは他者であると割り切ればこそ、
相手のことを考えた発言もどういうものなのかが見えるのだろうし、
また、「空気」が自然に「そこにあるもの」であるというのが見えるのだろう。


だがしかし、そう転換するのも簡単ではない。
まず、自分のキャラクターは他者が決める、とはいえ、
自分自身でそれを感じ取る必要があるのである。
それに関しては、自分自身で他者の側にコミットメントしていく必要があるし、
その上で他者が自分自身をどう思っているのかを感じ取る必要があるのである。


とはいえ、他者へのコミットメントといっても、それも難しいものである。
というか、それがあまり得意でないと自分で感じている人だからこそ、
自分を守るため、「空気を読む」ことに神経質になるのかもしれない。
そこで、片意地張っていた自己像を緩ませ、リラックスさせる必要があるのである。


だが、そのリラックスでさえもそんなに難しいことではないはずである。
それはその「空気」が自然なことを体感すればよいのだから。
つまり、その「空気」を他者と共有できていることの喜びを感じればいい。
些細なコミュニケーション行為でさえ、実はすばらしいことなのである。
今、そのコミュニケーション行為をした人は、
もしかしたら、ひとつの出会いがなければ、
永遠に、何千kmも離れたところにいて、お互い顔を合わすことができなかったかもしれない。
にもかかわらず、ここでコミュニケーションをとれていること、
それはすばらしいことなのではないか、
そう、喜びを感じればよいのである。


それは、誰しもできることである。
そして、些細なことに喜びを見出そうというキャンペーンは繰り広げられる。
だが、どうしてもそれを胡散臭く感じてしまうのは、
「他者の他者」とはいったい何なのかがわからないからこそ、
つまり、自己と他者の関係性の上において、自己が基準となってそれが構成されているからこそ、
それがうさんくさく感じられてしまうのである。
また「他者のための自己」と読み替えられてしまえば、相変わらずその基準が自己のままである。
自己像の転換があってこそ、その些細に共有される喜びは喜びへと変わる。
「他者の他者」とは、
「空気」の中の自分と、些細な喜びとの間を結び、
こうして、自己と他者の関係性の構築を円滑に進めていくものなのではないだろうか。
それが関係性の上で考えたときの私なりの結論である。