グローバリゼーションの光と影について

昨日から大学のプログラムで英国ヨークにきています。
これから語学や文化の勉強で、
いろいろヨーク大学にはお世話になることになるのですが、
これが驚いた。
大学の中で何でもそろうんですよね。
強いて手に入らないとしたら、箸くらいで、
ネットもこうやって日本語でできるわけですし、
食料から電化製品まで、学内の生協(?)で手に入るし、
学内のATMはシティバンクのカードが使えるし・・・で、
まったく申し分ない。


さて、グローバリゼーションとは、
ヒト・モノ・カネ・情報が、国境の枠を越えて
移動できるようになることです。
まぁグローバリゼーションについての賛否を
述べ始めると、非常に長くなるので置いておきますが、
とりあえず、ここで時差9時間のところへきたついでに
グローバリゼーションの光を体感できたので、
ついでに述べているまでです。


こうやってグローバリゼーションが進むと、
たとえば、企業人も海外出張も多くなるわけです。
あるいは留学に行く人、海外旅行に行く人・・・などなど、
国境の枠を超えて移動する人たちは、
これから減ることはありえない。
すると、そういう人たちが移動するために、
人の移動においては、交通のグローバリゼーション、
つまり、海運航空(+鉄道+道路)の国際化が起きるわけです。
何もなければ、わざわざ日本から英国まで
はるばる片道十数時間飛行機に乗る必要もないわけですし、
また、営業会社や国もそんな路線や道路を用意する必要はない。
また物の移動に関しても、
貨物輸送や物流システムの発達で
物を移動させやすくなったのはもちろん、
多国籍企業の発達で、
同じような商品を世界どこでも買えるようになりつつある、
ということも挙げることができる。
さらにカネの移動に関しても、
シティバンク新生銀行のグローバルキャッシュサービス、
あるいはクレジットカードの普及で
世界どこへ行くにも心配する必要がなくなってきている。
そして最後に情報の移動。
こうやって内部国際的な大学では
ネットをただ単に導入するだけでなく、
英語だけでない、各国の言語にフォントが対応するようになってきている。
また、それ以上に、どこへ行くにも、
バットイングリッシュ(ビジネス英語:正確でなくてもよい英語)で
どこでもコミュニケーションが可能になろうとしてきている。
グローバリゼーションの進展は、
移動する人たちにとってより便利に感じられるよう、
サービスの充実が図られているし、
またそれにしたがって、グローバリゼーションも進展していく、
まさしく再帰的な進展がなしえているというわけです。


グローバリゼーションが、ここで直面する問題が、
文化の壁をどう乗り越えるか、ということです。
しかし、それもたとえば食では、
「どこへ行ってもマクドはあるから、最悪マクドにしとけ」というように
マクドナリゼーションが進んでいる。
つまり、文化の固有性とは相容れる場面においては
文化の画一化は十分に進んでいる、といえるわけです。
しかし、長期間滞在すれば、
必ずしも毎日マクドを続けるわけにはいかない、
少なくとも2,3日に一度は、現地の食に向き合わざるを得ないですよね。


結局、グローバリゼーションがますます進む中で、
4年ぶりに海外に出てみると、
ますますどこへいっても不自由なく生活できるようになってきている。
そして、自分の英語力が少しでも上達すれば
それは増して感じられるようになる。
肝心な点は、文化の問題にどうやって向き合うか、
そして文化の違いをどうやって自分で解釈し、
現地で生き抜くか、ということが問われているわけなのです。


グローバリゼーションは、確かに、
どこへ行っても同じように不自由なく生活できる、という
光を提供しているわけですが、
同時に、そうした文化の壁をどう乗り越えるか、
という問題を突きつけてきている。
そして、その文化の問題こそ、
新しい民族問題や、新しいナショナリズムといった、
グローバリゼーションの影を映し出しているわけです。
そして、くしくも、
「海外に行くほど自国愛が強くなる」とどこかで言われるように、
海外にきて余計にリージョナルな方向性に傾倒するようになる、
たとえば、海外にきて現地の言語や文化になじめず、
「やっぱり自国に帰りたいな」とホームシックになる、
そして次第にそれがナショナリズムに発展していく、
ということを生み出していくわけですよね。


グローバリゼーションの光について考えるとき、
確かに、世界のどこでも不自由なく生活できるようになった
という側面もあるわけです。
しかし、それはあくまで片面でしか過ぎない。
グローバリゼーションによって画一化されることにより、
かえってリージョナルな方向性も強く注目されることとなる、
そして、さまざまな問題も発生するようになる、
ということについて、忘れてはならないと、
今回の経験ではじめて体感しているのです。