「幸せ」を求める結果、起こること

クロサギ」は詐欺社会について描いた作品ですが、
同時に、人間の本質についても突いている気がします。
この1ヶ月このブログを更新しないで、
ずっとこの作品を、ドラマ・マンガ両面から研究してきたのですが、
本当に、これがおもしろい。
切り口はいろいろあるのですが、
とりあえず、ここでは吉川氷柱と黒崎のやり取りについて
まとまりがないですが、考えてみました。


さて、吉川氷柱はどういう人物かというと、
作品中では黒崎の管理するアパートに住み、
そして黒崎のことを想い続ける大学生、
そんな感じで描かれているわけです。
同時に、黒崎のことを想っているのが、
(マンガではこう描かれていないが)
氷柱の友達、ゆかりです。


氷柱もゆかりも同じく黒崎を想うのですが、
ゆかりが「自分がさびしい思いをしている中で
黒崎がやさしくしてくれる(と自分で思い込んでいる)から
黒崎が好き」であるのに対して、
氷柱は、黒崎の生い立ち、影に対して関心を持ち、
そして黒崎がなぜ「幸せ」になろうとしないのか疑問を持ち、
黒崎が「幸せ」に生きてもらえるよう想い続ける、
その結果、「自分が黒崎のそばにいたいと思って黒崎が好き」
というように考えているわけです。


ゆかりのその想いは、黒崎にとっては「ウザい」行動となって
表れていくこととなります。
たとえば、「黒崎は正義の味方の詐欺師だ」
というようなビラを作って配ったりする。
しかし、黒崎にとっては、それは詐欺の邪魔になる。


氷柱も同じく、黒崎にとって「ウザい」行動を起こしていく。
たとえば、それは黒崎がジャンクフードしか食べないのを心配して
晩飯を作ってあげる、ということです。
黒崎がジャンクフードしか食べないのは
(これはマンガにしか描かれていないが)
手製料理が「幸せ」の象徴である、と黒崎が考える結果です。
その黒崎にとって、手製料理を作ってもらうという行為は
自分が目をそむけてきた影に対して向き合わなければならないことであり
黒崎にとっては、実は迷惑な行為である、と捉えられるわけです。


しかし、黒崎も次第に氷柱に対しては心を開いていく。
たとえば、氷柱が花火をしているときに
それに参加したりするのが、ここで挙げられます。
氷柱は黒崎に対して告白をするわけですが、
黒崎はそれに対して拒否していながら、途中で、
「もし俺のことを本当に想っていてくれるなら
俺のことを好きになるのはやめてくれ。」というように
自分のことを想うことは認めることになる。
それは、黒崎が詐欺をしながら影に対して目をふさぐことに対して
氷柱が「「幸せ」になろうとしてほしい」と思い続けた結果である、
ということができるかもしれません。


「幸せ」って何なんでしょうか。
「幸せ」について、黒崎と氷柱の間では解釈が異なっていて、
氷柱は「「幸せ」になろうとする結果得られるもの」とするのに対し、
黒崎は「幸せなんて俺にはいらない」と言うように
幸せというものは日常的なものである、と考える。


さて、ここまで「クロサギ」のエピソードを紹介してきましたが、
「幸せ」という概念に対して、その意味を考えるのに、
実はこのエピソードは、非常にわかりやすく、
その意味の対立を提示していると思います。
幸せというものには実は2種類あって、
氷柱のように、それは「獲得するもの」と考えるのと、
黒崎のように、それは「日常的なもの」と考えるのと、
両方ある、と考えることができるわけです。
とりあえず、ここから「幸福論」について
難しく考えていくと、そこには哲学や倫理学の知識が必要になるわけですが
ここでは、そういう本質を見出すような考え方を除いて、
「「幸せ」を考えること」の段階まで、考えてみました。


私見、というかよく言われることですが、
前者のように幸せを得ようとしていくと、
そこに欲望が強く結びついてきます。
たとえば、恋愛観・結婚観についても考えることができるわけです。
つまり、恋愛について、
後者の考え方では、異性と日常的に何気なく過ごしていくことが
「幸せ」であるのに対して、
前者の考え方では、結婚という「幸せ」に向かって、
そこで、金銭だとか地位だとかセックスの上手下手だとか、
いろいろなそういう欲望が絡み付いてくるわけです。


いや、これは恋愛だけに限らない。
私たちは、「幸せ」について、いろいろな考え方を持っている。
「あなたにとって「幸せ」とは何か?」という質問をぶつけられたとき、
多くの人はその答えに窮することになると思います。
しかし、そこで何とか得られた答えは、
実は前者のほうが多いかもしれません。


ちなみに私はそうではなくて、まさにこれは後者に当たるのですが、
私が一番「幸せ」を感じる瞬間は、
「電車の中で座って本を読んでいるとき、睡魔に襲われて眠りに落ちる瞬間」です。
ここには実は複数の要素が含まれていて、
電車で座れるということが一点。
そして、好きな読書をしている瞬間である、という前提。
そして、電車の中で眠りにつけるという、安全な国ならではの安心感。
この瞬間に出会うたびに、私は「幸せ」を感じてきたわけです。
まぁ、これはいいとして。


さて、その「電車の中で眠りにつく瞬間」に、
他人を傷つける要素は含まれていないわけです。
まぁ、あるとしても、爆睡して舟をこいで隣の人に頭をぶつけることくらいです。
しかし、実は前者の答えの中には、
その、「幸せ」になるために「誰かを傷つける」という要素が
含まれているんですよね。
しかも、自分がその「誰か」にとってもそれが「幸せ」であると
考えてしまっているときすらある。
つまり、その「誰か」を傷つけていることは、無自覚なのです。
たとえば、自分が高い地位を得ることが「幸せ」と考えれば
同時に同じ出世街道を進んでいた仲間を蹴落とさなければならない。
自分が結婚できるためには、
自分の理想である、金銭感覚や、地位や、セックスの相性が
合致する人を、何年もかけて選ばなければならないし、
そしてその途上で蹴られた人は、蹴られたことに対して
少なからず、心を痛めるわけです。


そして、その構造というものは、
この社会の構造そのものでもある、ということでもあるわけです。
氷柱が黒崎が詐欺で自分の影を埋め合わせ生きていることに対し、
それは、加害者の詐欺師の責任だけに限らず、
社会にも責任がある、と考えるように、
それが社会的に行われている以上、
「幸せ」を求める過程で無自覚に誰かを傷つけていることは
止むことがあるということはありません。
つまり、一番の被害者は結局その「誰か」、
クロサギ」でいえば黒崎なのです。