「知る」行為はエロティックで、そしてそれは「生きる」上での力である

パワーと欲望

先日、ある友人と話をしていて、
その友人は、「私は好意をもった(もたれた)人がいると
とことんその人のことを知りたくなる」と話した。
だが、そこで疑問となったのは、
果たして好意をもたれれば誰であれ、
その人のことを知りたくなるのだろうかと言うことだ。
つまり、好意をもつ(もたれる)ことと、知ろうとすることの間には
直接的な因果関係があるのではなく、
間に何か、両者をつなぐ要素があるのではないかと言うことだ。


たとえば、私は山崎豊子が好きで、何作か通しで読んでいるのだが、
その中で、近年ドラマ化された作品として、
白い巨塔」と「華麗なる一族」がある。
両作品に共通してみられる面白い点は、
白い巨塔」ならば財前と里見、
華麗なる一族」ならば大介と鉄平という
山崎作品にみられる二軸対立のうち、
前者、つまり権力をもった側、あるいは欲深いキャラには
必ずと言っていいほど、ベッドシーンが多く描かれているということである。


欲深いということはどういうことか。
もちろん、ベッドシーンと言う言葉から連想することは性欲かもしれないが、
もちろんそれだけではない。
財前ならば教授という地位だし、
大介ならば金融界のメガバンクを吸収することだった。
それは、もちろん単純に考えれば名誉欲ということになるのだろうが、
教授になった自分を知りたい、
あるいは、金融界を支配する自分を、阪神銀行(大介が持つ銀行)を知りたい、
と読み替えればどうだろう。
飽くなき欲望は、未知なる自分を知るという欲望であり、
また、それに対する挑戦というように考えることもできる。


あるいは、人はなぜ厳しい鍛錬の道でも、必死に成長しようとするのか。
たとえば、全国・全世界レベルのスポーツ選手は
非常に厳しい練習を乗り越え、その地位を手に入れている。
なぜそこまでにして、その種目にこだわり、練習を続けてきたのか。
単にその種目が「おもしろい」からかもしれない。
純粋に「おもしろい」という好奇心があり、
その消費のために、練習などどうでもよく、突き詰めることができるかもしれない。
しかし、本当にそれだけでやっていけるのか。


時として選手生命が危ぶまれるほどの怪我をし
それでもプレーを続ける選手がいる。
今で言えば、プロ野球埼玉西武ライオンズ中村剛也だろうか。
彼は、ほお骨を骨折してまでも、試合に出場し、
そして、結果を残している。
同じくプロ野球でいえば、阪神タイガース金本知憲であり、
彼は、時に頭部に死球を与えられても、
世界記録の連続試合出場を今でも続けている。
もちろん、彼らの行為は、一般人には想定できない話である。
体の、特に頭部や頬など顔面にダメージを受ける。
そんな事故にすら一般的には遭遇しないし、想定できない。
しかしそれでも、中村ならば初めてのレギュラーの地位、
金本ならば前人未到の世界記録に、
今の自分に想定できない自分が待っていることを想定し、
その姿を知るために、プレーを続けるのであろう。
そして、その知ることへの欲望こそが、
彼らの想像を絶するパワーへとつながり、
大選手たる彼らの選手像、まさにプロフェッショナルが存在するのだ。


では、私たちがそこまで「知る」ことにこだわるのはなぜだろう?

社会学的想像力」から見える、「問い」について

こうした欲望を、学問的分野において指摘した一人が、ミルズである。
彼は「社会学的想像力」というキータームを提示し、この概念は、
今でも社会学を研究する者に突きつけられる課題となっている。


社会学的想像力」とは何かというと、
社会を知る際に、単に社会を知るだけではだめだということである。
たとえば、ミルズは『社会学的想像力』の中で、
それまで社会学、とりわけアメリ社会学の分野の主流だった、
パーソンズラザーズフェルドなどが提示した思考法に対し、
前者へは誇大理論、後者へは科学的方法への盲信と批判したわけである。
その上で彼が社会学的想像力に求めたのは、
まさに現実的問題に視点を向けることであったのである。


社会を知ることとは、幅広いものの見方をすることだ。
社会学は、このように
「熟知している、判で押したようなみずからの毎日の生活を
新たな目で見直すために、そうした毎日の生活の当たり前のことがらから
「離れて自分自身について考える」こと」*1である。
たとえば、一杯のコーヒーを見るにしても、
その豆はアフリカや南米から来ているだろうし、
コーヒーを飲むという行為にも象徴性があり、また薬物としての嗜好性がある。
もちろん、コーヒーの歴史には社会的経済的な文脈が存在するわけだ。
そうして多面的に探求していけば、
たかがコーヒーとて、そこから山ほど社会について知ることができる。
しかし、ここで重要なのは、その一例がコーヒーという身近なものだからこそ、
私たちが、すんなりと日常の当たり前から解き放たれ、
深いその背景を知ろうと思え、
そこに個人と社会の関連が生まれるのである。


もし、そのスタートがあいまいなものだったらどうだろう?
言いかえれば、社会を問うときに、
まぁ別に社会学にとってフィールドが社会なのであり、社会でなくてもよい、
探求する領域を問うときに、
そのスタートが身近なものではなかったらどうだろう?
まず、探求をするには、「問い」が必要だ。
すると、問いを立てることができない、
言いかえれば、仮説を立てることができないのである。


マックス・ウェーバーが「理念型」という言葉を使ったように、
物事を知るということは、眼鏡をかけるようなものである。
社会にせよ、人間にせよ、私たち日常にとっては、わかりづらい存在だ。
ましてや、社会というものなど、この世に存在するかもわからない、
非実態的な概念である。
しかし、そこに「社会」という概念を与え、
そしてさまざまな概念をあてはめていくことで、
その概念を眼鏡のように、あるいは物差しのようにすると、
世の中がすっきりわかったような気になれる。
あくまで、気になれる、という段階のものでしかないが、
それにしても、理念型という「問い」わからないものがわかる、ということが、
物事を「知る」ということなのである。

他者を愛することは何のため?

さて、それでは愛するという「知る」行為において「すっきり」するとは何か?
それを考えるために、例として恋愛を関係性の観点から考えてみる。

恋愛の不可能性について (ちくま学芸文庫)

恋愛の不可能性について (ちくま学芸文庫)

大澤真幸は、愛し合う二人の「距離」が決して克服されないことが
恋愛なのだとする。*2
たとえば、私が今ここにいて、
恋愛対象をいかに選ぶかを考えるとする。
一方では、吟味して他と比較しながら慎重に選んだ相手、
他方では、運命的に出会った相手を想定する。
すると、前者の場合、つまり積極的に相手を選んだ場合だと、
「本当にこれが愛なのか?」と疑問が浮かぶことがあるのである。
しかし一方で後者の場合、
たとえば一目ぼれなど恋に落ちるということ、
あるいは仕方なく相手を選ばざるを得ないお見合いのような相手だと、
案外、愛を感じることがあるのである。
(といって私はお見合いをしたわけでないので、あくまで聞いた話で。)


愛情とは、このように相手の存在に帰するものではない。
つまり、相手があってそこに愛情や恋愛感情が生まれるのではない。
相手と自分が一体となるような関係がそこに生まれるからこそ、
言いかえれば、私はあなた(他者)という関係が生まれるからこそ、
そこに愛情や恋愛感情と言ったものが生まれるといえる。*3


しかし、本当に自己が他者と一体となるのかというところが、
大澤の指摘する点のミソである。
つまり、自己と他者の間に差異があるからこそ、
それが同一性に生まれ変わる。
なんともしっくりこないかもしれないが、
たとえば、犬と猫の場合、
そもそも種は違うが、哺乳類やペット類としては同じだ。
そうした根底があって、初めて同じようにペット屋に並ぶ存在となりえる。
つまり、自己を他者に投入していく、同一化していくことは、
実は他者との間に絶対的な差異と出会い、
それは乗り越えることのできないものである。
言いかえれば、恋愛とはその絶対的な差異が自己と他者の間になければ
成立しえないということになるのである。


そこで、他者とはどういう存在になるのかがここで重要である。
つまり、恋愛における他者とは自己のユートピアを映し出すものである、と。
ここでの他者とは、憧れの存在である。
だが、それが決して「萌え」と同一的でないのは、
その幻想の根柢の部分では、同一性が支えているということなのだ。
「萌え」が決して自己と対象が混じり合わない、というよりも
そもそも混じり合うことなどあり得ないものなのであるのに対し、
恋愛と言うものは、混じり合いそうで混じり合わない、というものである。
その加減が絶妙であればある程、人は恋愛に燃えるのである。


とすれば、冒頭の私の友人の例をどう考えればいいか。
つまり、「知る」ことに執着する点では、差異が存在する。
だが、それが差異では済まされず、差異なのだけれども、
同一的に見えるような点があるところで、恋愛に落ちるのだ。
つまり、「生きる」こと、つまりエロスの世界で。フロイトの言うように。
生きる本能的なパワーが自己のどこかで強く発せられたとき、
そして、対象が自己と同一的にあるように見えたとき、
また状況的に環境が偶然的にも整ったとき、
彼女は現在のような状況に陥ったのだろうと解釈できる。


そして、この「生きる」ことで差異が自己と同一的にあるように見えるとは、
先ほどの社会学的想像力にも共通して見いだせる点でもあるのだ。
繰り返すが社会学的想像力は身近な例に対し、
日常から解き放つための「問い」を立てることを求める。
この身近さこそが、同一性である。
しかし、「問い」を立てて「知る」ことを続けても、
決して自己とは完全に同一的なものにはなりえない。
「知る」行為の連続は途切れることはあり得ず、
そのゴールなど存在しえないのである。
この点から考えれば、探求をするということは、
恋愛のようなものであるともいうことができるわけである。

「「知る」ことは猥褻的行為である」

では、そもそも「知る」とはどういうことかを考える必要がある。
そこで、参考になるのはまたしても大澤の議論である。


大澤は、「知る」ことを猥褻的なことであるとする。
これだけ聞くと、何のことかさっぱりわからないかもしれない。
「知る」ことと、猥褻行為で連想されるのは、
痴漢行為やセクハラ行為といった犯罪的行為である。
とはいえ、これらはあくまでその極端な例であると考えねばならないが、
痴漢行為やセクハラ行為はなぜ犯罪的行為なのか。
それは、その暴力的に「知る」行為が、
相手の無能性・受動性を白日のものにさせるからである。
もちろん、痴漢行為やセクハラ行為は暴力的行為なのだが、
その自己の側に、暴力性の自覚はない。
言いかえれば、自分の「ムラムラする気持ち」が
相手が知っているものであると、意識的にか無意識的にか、
前提にしてしまうからこそ、問題なのである。
これが、相手の合意のもとであればもちろん問題はないだろうし、
しかしそれが合意のもとであれば、
そもそもそれは痴漢行為やセクハラ行為とはみなされないのだ。


「知る」行為の猥褻性は、その合意がなされていないことにこそ、
要因を見ることができるわけである。
そして、痴漢行為やセクハラ行為であれば、
合意がないままであっても、
その「ムラムラする気持ち」という前提を強制されるように
身を預けざるを得ない状況になるからこそ、それらは犯罪となるのだ。


もちろん、こうした構造は
痴漢行為やセクハラ行為だけの問題ではないことを忘れてはならない。
たとえば、夫婦関係をここに想定するとして、
通常よりも遅い時間に帰宅した夫に対して妻が、
「どうしたの?なんでこんなに帰りが遅いの?」と問いただせば、
仮にそれがやましい理由がないとしても、赤面せざるを得ないのである。
無力な存在へ、こうして「問い」を立てるということ、
そして「知る」ことを望もうとすることは、すなわち、
こうして猥褻的な性格をもったものであるのである。*4


そして、痴漢行為やセクハラ行為が、
他者からの異議申し立てがない限りやまないのはなぜかといえば、
逆に自己が、その欲望への快感を覚えてしまうからである。
それが犯罪であり、またそこに暴力的意味があるからこそ、
それは問題化されるのである。
とはいえ、痴漢行為やセクハラ行為は犯罪的行為であるから、
一般的には、道理上行おうとは頭の中で描こうとすらしないだろう。
しかし、極端な例であるそのような犯罪的行為まで至らなくても、
弱き他者へのそうした「知る」行為を執着することはあるのだ。
たとえば、先ほどの私の友人が話したことはそのいい例である。
「私は好意をもった(もたれた)人がいると
とことんその人のことを知りたくなる」と話した彼女の話は、
他者への飽くなき「知る」欲望の表れではないか。

生きるため、エロく、「知る」

もちろん、ここで「知る」対象としての他者とは人間には限らない。
物であれ、社会であれ、文化であれ、なんでもよいのだ。
その対象を愛している限り、探求への欲求は滅びないだろう。
そしてその愛する対象とは、
自分が「生きる」上で近くて遠い存在であれば、
なお探求心は燃え上がるだろう。


そして探求心に没入するためのパワーは、
まさに自己の猥褻的な欲求にあると考えられる。
もちろん、その猥褻なこころは公的な場面に表せないが、
私的に秘めていればよいのである。


逆に、探求心の社会的な低下がみられるのは、
この猥褻なこころが廃れていることにあると考えられないか。
たとえば、福祉制度の普及は少子化を呼ぶ側面があるという。
しかし、生きるために障壁がなくなればなくなるほど、
生きることをそもそも問う必要がなくなるのだ。
教養主義の没落もそこに一因を求めることができる。


だが、一昔前の教養主義と違うのは、
「知る」ために社会的要求はないということである。
まさに個人的な文脈に限られたのだが、
だからこそ、それが犯罪的なものでない限り何に対してでも
「知る」ことは可能なのだ。
そして「知る」行為に秘められた内なるパワーは
「生きる」ための強力なエロい力なのである。
その上で、対象はなんでも良い、他者を「知る」ためには、
それは愛すべき人に愛情を注ぐように、恋人に恋するように、
暴力的ではなく、やさしく、しかし忍耐強く、力強くなければならないのだ。

*1:A.ギデンズ[1992]『社会学』(松尾他訳、而立書房)p.22。太字は私が付けた。

*2:大澤[2005]「恋愛の不可能性について」『恋愛の不可能性について』p.14

*3:大澤[2005]、前掲、p.24

*4:大澤[2008]『逆接の民主主義』p.149