堀北真希論 下(終) - 優等生美少女女優としての「堀北真希」〜メディアの映し出す「理想の女子生徒」としての堀北真希〜

ブラウン管の向こう側に映る芸能人は、
時に視聴者である私たちにとって憧れの存在となります。
自分から一方的に他者を承認したり、他者から一方的に自分を承認されたりという
「非対称」な人間関係においては、そのコミュニケーションから
私たちは憧れの「他者」とともに生きる喜びを与えられる、と長谷正人は指摘します。
グラビアもそのメディアの一つです。
グラビアを見て私たち読者はまたある種の「憧れ」を覚える。


先日、週刊少年マガジンにて堀北真希が特集されましたが、
その映し出され方が、学校で堀北真希と待ち合わせて、
堀北真希に料理を作ってもらって、
堀北真希とキャッチボールをして、
それで最後は??という流れだったのですが、
そうした映し出され方そのものにも、
主要読者層である少年少女の「憧れ」を煽る働きがある
ということができるかもしれません。


堀北真希がグラビアに映し出されると言うことは、
堀北真希=「優等生」美少女女優として映し出されていることからもわかるとおり、
まさに「クラスの鏡」の存在として、堀北真希が位置づけられることでもあります。
生徒からこうして鏡として扱われるとともに、
また教師からは、「優等生」は他生徒の模範として扱われる。
まさに学校文化の理想の生徒像であるといえるわけです。


私が注目したいのは、「優等生」「堀北真希」を通して、
いったいどんなイメージが流布されているかと言うことです。



マガジンの実際のグラビアを見てみると、強調されているのは、

  • 清潔感のある制服姿
  • 力強い大きな瞳
  • 健康感のあるなびく黒髪
  • 透き通るような白い肌

まずこうしたことが目につくわけです。
特に黒髪について、堀北真希は髪を染めたことがありませんし、
また、皆さんにとっても想像しにくいことでしょう。
「優等生」として映し出されているポイントは、
こうした清純さに表れているといえます。


そしてもう一つ強調されている点は、

  • 料理が得意
  • スポーツが得意

といったことであるわけです。
料理が得意と言うことは、まぁ女子には典型的であるわけですし、
またスポーツが得意と言う点に関しては、
健康的である、あるいはさわやかさ、ということをイメージさせます。


その他、一般的イメージとしては

  • 真面目

こういったことがイメージされるかと思いますが、
こうしたイメージと言うものは、
堀北真希の「堀北真希」というイメージから映し出されることであるわけです。


事実、プロフィールから「堀北真希」の成分、キャラクターを解析してみると、

  • 中学校の生徒会副会長を経験→真面目さ、素直さ、力強さ
  • 勉強好き→勉強ができるイメージ、真面目さ
  • 趣味は読書→教養、清純さ
  • スポーツがすき→健康的、力強さ
  • 特技はピアノ・料理→女子らしさ
  • 和食や浴衣が好き→和

このように、まさに堀北真希のプロフィールは、
堀北真希」のキャラクターから完全になりたっている、
むしろそれができすぎているかのようであるわけであります。



同時に、堀北真希がどういった作品に出ているのかと言うことも考えてみると、
ケータイ刑事銭形舞電車男、特に典型のクロサギ
真面目な優等生としての役柄であるわけですし、
また、逆境ナインは、優等生に加えて女子という成分も含まれた
野球部女子マネージャーという役柄である。
野ブタ。をプロデュース着信アリFinalはいじめられ役でありますが、
実はその中に真面目さが映し出されているわけですし、
(いじめのきっかけがいじめられていた親友を助けたことであったり、
いじめられている中で示唆深いことを友達に言ったりする役である。)
またALWAYS三丁目の夕日も一生懸命な新入社員の役である。
唯一例外なのは鉄板少女アカネ!!ですが、
その例外の作品が失敗に終わったことも考えると、
実に「堀北真希」というキャラクターが堀北真希をささえているのかが
よくわかるわけです。



堀北真希はこのように、
芸能人として、また優等生として、
同時に「憧れ」の対象であるということができますが、
なぜこの堀北真希がブレークしつつあるのかと言うことを考えなければなりません。
大物女優が数多く台頭した2006年にあって、
しかし、なぜ同世代の長澤まさみ沢尻エリカほど、
堀北真希はブレークしないのかと言うと、
実は、そのキャラクターがあまりにもできすぎているがために、
どこか反発があるからでもあるかもしれません。


事実、堀北真希について周りに好きかどうか聞いたところ、
あまり好きでないという意見が多くあがりますし、
加えて、特に女子から不評であるという事実もあります。


堀北真希」が映し出すイメージと言うものは、女子の優等生ですが、
しかしそのイメージは、女子らしさをも映し出すと言うことも
忘れてはならないことです。
女子らしさについての女子たち自身のイメージするところが、
近年女子たちの意見として真っ向から対立する、
「女子らしさに抵抗する仕事志向」と
「女子らしさに従順した家庭志向」のように分かれていることも考えると、
堀北真希は女子の間からは全般的に受け入れられるかと言うと、
まずここからはないと言わざるを得ないことがわかります。


しかし、堀北真希がそれでもブレークしようと言うのは、
いったいどういうことなのかというと、
やはり「理想の女子」に対し、それでも一定の需要があるからである、
ということなのではないでしょうか。
メディアを通した理想である芸能人に対し、
私たちは「憧れ」をもつ。
それはメディアによる「煽り」によって「憧れ」を持つのと一方で、
メディアの「煽り」を作り出す機能、
すなわち、メディア以前に私たちが「憧れ」を持っているからこそ、
そういう芸能人がブレークするのだと言うこと、
メディアを通したイメージ形成が再帰的であるからこそ、
そういうことができるわけです。


このように、堀北真希がブレークすることから
社会的な「理想の女子」に対する需要が高まっていることが推測できるわけです。
そして、同時に堀北真希の存在は、その鏡としての扱いであるといえるわけです。