大学のゼミの意義について

今日は所属ゼミの面接に在学生代表として参加してきたのですが、
面白く思いつつ、しかしなかなかおもしろくなかったですね。


面白いなと思ったのは、面接に来ている学生が実に多彩で、
例えばある競技でインターハイ全国優勝した経験があったりとか、
自分の母校の非常勤の先生が違うところで教えていた学校出身の学生だったりとか、
まぁそんな感じなのですが。
人となりは多彩で刺激的でした。
しかし、志望動機ですね、問題は。
志望動機を聞くと、必ず、決まりきった答えしか話してこない。
例えば「先生の交通の授業を聞いて交通に興味を持ってそれについて勉強してみたい」
「最近交通の役割は重要になってきていて、興味を持った」などなど。
私はそこで必ず、もう一歩突っ込んだ質問をするのですが、
例えば、前者であれば「交通のどんなことに興味を持ったのか」
後者であれば「交通のどんな役割が重要視されてきているのか」など。
もし、仮にその志望動機が本当だとするなら、
もちろんその答えは、前者であれば「鉄道です」とか簡素な答えをせずに、
「鉄道に乗っていて、いつも不便だと思うのです」とか答えればいいわけだし、
あるいは後者であれば、そういうことを自分から言うのであれば、
もうちょっと突っ込まれてもいいよう、新聞記事を参照したりして
自分でほんのちょっと勉強してくればいいだけの話です。


しかし、それがなぜ彼らはできないのかというと、
やはり、志望動機が曖昧なままだからなのだと思います。
仮にそれが二次募集であれ、
どうしてもこのゼミに入りたいというように思わせるような理論武装があるべきだし、
また、そういう準備を、うそでもいいから作ってくるべきです。
彼らがなぜそこまでしないのかというと、
「大学生はゼミに入らなければならない、じゃぁどこか入っておこう」
などという非常に中途半端な動機であるがためではないかと思われます。


大学とか学部によって違うのですが、
ゼミ、つまり演習というのは必ずしも必修ではなくて、
ここから「大学生はゼミに入らなければならない」という言い分は
成立しなくなります。
また、では「ゼミに入ってないと就職が不利になる」という言い分があるとすると、
いまや就職でも格差の時代であって、
ゼミに入ったからといって就職できるわけではないことを考えると、
これも成立しなくなるわけです。


ゼミというところは、どんな大学の環境であれ、
やはり自分が勉強するところだと思います。
決してそこは(あくまで副次的なものに過ぎない)友達を作る目的の場所ではないし、
またサークル感覚で参加するようなところでもない。
勉強の専門領域を同じくする者が、切磋琢磨しながら勉強していくところ、
そしてお互いに刺激を与え合い、また受けあうところだと思います。
したがって、ゼミは、中途半端に入ってくるようなところでもないし、
また、就職のための手段として使われるべきようなものでもないわけです。


当然、彼らのように中途半端な動機で入ってきて、
そして、特にそのなかでも中途半端にゼミの勉強をこなす人もいれば、
逆に、ゼミに対して強かろうと弱かろうと
しっかりと動機を持って入ってきている人もいる。
しかし、ここで擁護すべきことなのは、
本来的なゼミのあり方に立ち返れば当然後者なのであるべきなのではないでしょうか。
つまり、前者のような人によって後者の動機付けが低下することは
避けなければならないでしょうし、
また、ゼミの進行も、基礎知識のシェアから始まるのではなく
それ以前にゼミに対する動機付け作りから入ることで
後者の人がより発展的なレベルで勉強する環境を阻害させることは
あってはならないはずです。


しかし、やはり現状としてどうしてもここの前者の人が
ゼミに入ってくるのだとすれば、
やはりその原因としては、
①「動機がしっかりしていようがいまいがゼミに入らなければならない」とするイメージを煽っている何かがある
②ゼミに入る際にきちんとセレクションが行われていない
という二点が考えられると思います。


①については、大学のカリキュラムに問題があるわけではないわけです。
むしろ、学生のキャリア形成において間違った情報が流れていることが問題です。
あるいはその構造的な問題です。


②については、より一層セレクションが行われるべきです。
人数に比例して指導官も配置されなければならないわけですが、
それも予算的など問題で無理なのだとすれば、
結局、ゼミは必修ではなくなるわけです。
ゼミが必修ではなくなるということは、
ゼミがなくても卒業できるようになるということです。
セレクションする側は、ゼミの本来的な目的に立ち返った上で、
動機が曖昧な学生に対しては、
思い切ってセレクションをかけてもいいのではないかと思います。