なぜ宮崎あおいはバングラデシュでスカーフをしなかったのか

私が今春にバングラデシュを訪問してから久しいが、
その中で、先日TBS・MBS系で
「未来の子どもたちへ〜地球の危機を救うお金の使い方」という番組がやっていて、
その中で宮崎兄妹がバングラデシュを訪問する様子が映されていた。
正直なところこのバングラデシュ訪問が宮崎あおいであった必要があったのかと思うが、
きっと彼女がチャリティーに参加した経緯もあるということで理解できる。


さて、この番組を見ていて些細だが気になる点があった。
(お決まりパターンで「貧しい」というイメージを強調していたのは置いておき、)
番組ではグラミン銀行の小規模融資が特に女性のエンパワーメントに
良い影響を与えているということを伝えたかったようである。
それはバングラデシュの開発援助において特徴づけられることだし、
ユヌスがノーベル賞を受賞しているにもかかわらず、
なかなか私たちはそうした情報を知りえないので、
それをより多くの人に伝えることの効果は期待できる。


気になる点というのはそういう内容上の話ではなく、宮崎あおいの”容姿”の問題である。
容姿といっても彼女そのものの容姿というわけではない。
彼女はもはや日本の若手女優の中でも抜きん出た演技力をもち
そしてそれと比例した「綺麗さ」や「美貌」は誰もが認めるところだろう。
今回はその容姿ではなく、彼女の旅姿であり、
なぜ彼女はスカーフをつけなかったかという点である。


これは非常に大きく気になる点である。
普通、女性のバックパッカー組であれ、現地滞在組であれ、
イスラム圏でスカーフやブルカをつけるのは、
地域のイスラム色の強弱にもよるが、常識である。
バングラデシュはというと、そのイスラム色は幅があり、
全身をすっぽりと覆ったブルカの女性もいれば、何もつけない女性もおり、
しかし大方の女性はスカーフを頭にかぶっている。
なぜスカーフやブルカを女性がかぶるのかということについては、
ここで詳しく説明することでないかもしれないが、
重要な点は、女性のジェンダー的問題ではなく、女性が身を守るという点である。
コーランでも、あるいは南インド特有のパルダの慣習においても、
その理由に相違が多少あるものの、女性は身を守るために肌を隠さなければならないとされる。


では、イスラム教信者でない女性ならそれは関係ないと思うかもしれないが、
それは逆の立場、つまり男性からの視点によって、その誤りが明らかになる。
女性が身を守らなければならないのは、
イスラムの性に対する考え方が自然には逆らわないということに基づいていて、
つまり男性の方の視点から見れば、”奇麗な”女性であれば”興奮”せざるをえないのである。
女性が「美しいところ」を特に隠さなければならないのは、
男性にとっても余計な悩みや、あるいはよもやの出来事を避けるためでもあるわけだ。
女性の側がいくらイスラム教信者でないからといって、
周りの圧倒的な数のイスラム教信者の男性からしてみれば迷惑なことだし、
また、その常識を知らない、あるいは無視することで、
旅行中のレイプなどの予期せぬ事故に巻き込まれるケースもあるほどである。


さて、宮崎あおいの話に戻るとする。
彼女はなぜその”美貌”を隠さなかったのかということである。
確かに世界ではその女性のスカーフやブルカが、差別であるという言説が圧倒しており、
テレビ局としては、日本でも視聴者の多くがそういう意見をもつ中で、
「教養番組」という性格上無視できなかったのだろう。
だがこの言説は、本来女性差別ジェンダー的側面にだけ着目されなければならないのが、
文化・宗教の面にまで及んでしまっているわけである。


くしくもこの番組ではグラミン銀行を取り上げるにあたり、
バングラデシュの女性が男性(特に夫)に虐待されるケースが後を絶たないとする。
この家庭内男尊女卑の問題は、番組ではここまでは取り上げられていないが、
宗教つまりコーランからというよりは、文化つまりパルダ(男女隔離制度)や
ダウリ(結婚持参金制度)から来ているようなものであるようである。
パルダは性的役割分業を規定し、貧困からの脱却において
貧しい女性が外に働きに出ることを阻んできた。
こうした文化や制度を乗り越え女性のエンパワーメントを図る目的もあって、
グラミン銀行をはじめとしたNGOの活動は行われているわけである。
こうした、現地の本当の姿を伝えるのであれば、
ジェンダー的側面と、文化・宗教的側面は切り離し、
宮崎あおいはその容姿を隠さなければならなかったのではないだろうか。


番組の全体としての趣旨は「地球を救うお金の使い方」とあり、
日本人にとって何気ない100円でも大きな価値をもつ地域もある。
だから、募金をしよう、あるいは自分たちは無駄にせず大切に使おう、
そんなことが視聴者に印象付けられるだろう。
しかし、私たち市民の立場からできる開発援助において大事なのは、
100円募金をしても全額その「貧しい」子どもたちに行くわけでない募金よりも、
募金をしようとしている相手がどんな人たちなのか、
どんな地域なのか、どんな状況なのか、といったことを知ることである。
私たちの募金などの行動の面はその上にあって初めて効果を生むわけである。


そう考えると、視聴者はこの番組から、
「よくイスラム教圏内では女性は肌を隠さなければならないというが、
宮崎あおいはなぜ肌を隠さなかったのだろう」という疑問が浮き出なければならない。
疑問と言っても、それで番組を批判せよということではない。
それがきっかけでなぜそうなのか、視聴者の立場から考えることも、
これは開発援助という点では非常に些細だが重要なことである。
一方で問題とならなければならないのは、
番組で「貧しい」子どもたちといった私たちの側からはありきたりなイメージを打ち出す一方、
現地では当たり前の女性が肌を隠す姿を出さないという構図をもとに、
この番組があたかも平然と放映されたことである。
そして、そうした構図をもととした番組からは、
私たちの日常に刺激を与えるようなきっかけにはなかなかなりえないだろう。
今回取り上げられた内容が、普段なじみ薄いバングラデシュという国であり、
またここで書いている私も完全に理解して書いていないほど
それがなかなか難解なイスラムの国であったがゆえに制作に工夫が必要であっただろう点、
非常に悔やまれる。