「足あと」と匿名性について

ブログとSNSは、いまや私たちにとってなくてはならない
コンテンツとなりました。
しかし、ブログとSNSはなかなか並行して
続けることが難しいのではないでしょうか?
少なくとも私は思います。
そして、ブログ派とSNS派と、
二手に分かれるのではないか、と思います。

そのキーとなりうるのが、mixiの「足あと」機能です。
使っている人ならもちろんご存知でしょうが、
これは来訪した人が誰であるかを特定できるものであり、
逆に言えば、相手のところに来訪したとき
自分が特定される機能である、とも言うことができます。


ブログにおいて、誰が閲覧したかを確認することは
アクセス解析という方法を使えば、ある程度可能です。
しかし、これはIPアドレスまでは特定できても、
ではそのIPアドレスは誰さんのものであるかを
特定できるものではありません。
一方で、mixiの「足あと」機能を使えば、
どこの誰が閲覧したか、確実に特定することができます。

一時ブログがものすごく流行りました。
しかし、結局その流行は
このmixiはじめSNSに移行したのではないか、と思います。
いまや、僕の周りでは
mixiをやってない人が少数派になるくらいです。


さて、ではなぜ「足あと」という機能があるのか?
僕はmixiがどういう意図があって搭載したのかは知りません。
しかし、この機能へのニーズを推測することは可能です。
それは、大きく2つ考えられると思います。
1つは、「足あと」をきっかけとして、
昔の友達や、気の合う新しい友達と
知り合うことができる、ということです。
私も、この機能を使って、
「あ、お前もmixiやってたんか。」
と昔の友達を多く見つけました。
そういう楽しさがあるんだと思います。

もう1つは、誰が自分の情報を閲覧したかの管理です。
「足あと」機能がなければ誰に自分の日記、
つまり個人情報が見られているかわからないわけで、
その不安を解消するために利用することができる、
と考えることができます。


ここで疑問なのは、
前者を主に楽しみにSNSをやっている人は、
果たしてどれくらいいるのか、ということです。
もちろん、何れかコミュニティに属し、
そこで仲良くなった人と仲良くなる、
あるいは、たまたま徘徊していたら
昔の友達、あるいは最近できた友達に出会い、
そして友達登録する、なんてことはよくあることだと思います。

しかし、SNSを使う「主な理由」が、
それである、という人はどれくらいいるのでしょうか?
結局、みんな自分で日記を書きそれを人に見せびらかす、
また書かない人でも、
見せびらかされた他人の日記を読んで楽しむ、
それが主なSNSでの日常なのではないでしょうか?
(あくまで仮説に過ぎませんが。)


つまり、人との出会いがこのように主な目的でないとしたら、
同時に、前者は「足あと」機能への
主なニーズにはなりえないのです。
言い換えれば、
後者こそが、「足あと」機能の主なニーズなのではないか、
ということです。

ここでブログとSNSの違いをもう1つあげることができます。
それは、ググったときに引っかかるか否か、です。
ブログでは、完全に閉鎖的に管理しなければ、
引っかかってしまう。
すなわち、例えば社会人が会社の悪口を書いたとしましょう。
すると、その会社名を検索ワードに入れるだけで、
引っかかってしまうのです。
しかも、誰が見ているかわからない。

逆に、SNSでは検索は引っかからないようになっています。
また、日記の検索においても、
「全体に公開」を選択しない限り、引っかからないので、
日記の内容で「変な人」がやってくるということは、
少なくとも防ぐことが可能です。
また、誰が見たかも確認することができるのです。


つまり、こうして誰が見たか管理できるということは、
安心して、いろんなことを日記に書ける、
ということなのです。
この安心さが、
「足あと」機能への主な支持につながっているのではないか、
と思うのです。


一方で、それは逆に言えば、
自分が誰かの日記を見たことも管理される、ということです。
誰にでも、「二度と会いたくない」「会いづらい」人は
いると思います。
しかし、これだけmixiが一般化すれば、
そんな人ですら、登録している可能性は大いにある。
しかも、名前の表示はニックネームですから、
その本名が誰であるかを確認するには、
各人のトップページを確認するしかないのです。
そして、開けて気づいたら「気まずい人だった」でも、
そのときすでに「足あと」は記録されているわけですから
閲覧したという事実は消すことのできない事実となる。

私は「足あと」機能にはこうした問題点が
あるんだと思うのです。
すなわち、具体例で言えば、
何らかの事情で会いたくない人と偶然会ってしまったとき、
(つまりネット上で言えば、
その人のページに偶然行き着いてしまったとき、)
ブログならば、
「いや、僕じゃないですよ。
同じマンションのIPの人じゃないですか?」
などと、出会ってしまったことを言い逃れできる。
すなわち、この「嘘」によって、
情報の誤配としてこれは認められることとなる。
社会学的に言い換えればコンティンジェンシー。)
しかし、「足あと」機能があると、
これは情報の誤配として認められることができないのです。
すなわち、
「いや、僕じゃないですよ。
たまたま僕のIDで他人が書いたんです。」
などとは嘘をつけないし、容易に認めがたいですよね。
こうして「嘘も方便」が通用しなくなるのです。


しかし、ブログ派よりもSNS派が
間違いなく多くなってきている現状を考えると、
そうした屁理屈は通用しなくなってしまった、
と考えることが妥当なのかもしれません。
すなわち、私たちは、
誰が自分のページにやってきたか特定し管理したければ、
自分の少なからず持っていた匿名性を捨てなければならない。
そして、それでもそうした現実を認めたくなければ、
いろんな人のページに
「足あと」をより残さない方法を考えざるを得ない、
ということができます。
そしてその結果、行き着くところは、
自分の知っている安心できる人のページだけに
「足あと」をつければいい、
そういう考えであると言うことができます。
言い換えれば、これは開放的な人間交流の拒否です。

しかし、元来SNSの目的にあったのは、
社会的ネットワークをネット上で実現することです。
このことを考えれば、
こうした開放的な人間交流の拒否は認められません。
そのように拒否するのであれば、
あくまで商品にすぎないので、別に使わなければいいのです。
つまり、先ほどの議論をここから遡っていくと、
自分の知っている安心できる人だけのページにしか
「足あと」をつけないというのは認められないし、
自分の持っていた匿名性をあきらめなければならないのです。
まぁ、すこしこれは実際には言い過ぎかもしれませんが。


これは余談で「マイミクシィ」の話になりますが、
実際には、「気まずい人」に「足あと」を踏まれても
たいていは無視します(されます)。
しかし、こちらが「気まずく」思っていなくても
相手が「気まずく」思っている可能性があります。
(逆も然り。)
これは、まさしく感情の誤配です。
このとき、もしこちらが間違って「友達申請」したとき
「足あと」が根拠となって、
思い出やら何やらを理由にして
相手側は「友達承認」をすることでしょう。
あるいは「友達拒否」をするかもしれない。
いずれにしても、これによって、誤配は正配へと変わり、
やがて、「友達」か「赤の他人」に
両者の見解は一致するわけです。
つまり、仲直り、あるいは仲たがいは、
まぎれもなく「足あと」がきっかけなのです。


本論に戻りますが、
「足あと」が支持されるのは、同時にこのように
「あの人は気まずい」だとか
「日記はあまり公開したくない」だとかの
「ちまちま」した屁理屈が認められなくなることに
結局は行き着くわけです。
だからこそ、もともとの「足あと」のニーズである
誰が自分のを閲覧したかの管理をしたければ、
この「足あと」の問題点も受容しなければならないのです。
何度も言うように、嫌なら使わなければいいですから。

しかし、実際はそこまで厳密に
みんな「足あと」について深くは考えない。
現に僕も、
余談で誰彼かまわず「友達申請」するべき、
という結論に達しつつ、
マイミクシィ」にはある一定の層の人たちは
意図的に登録されてなかったりするのです。
もちろん、そうした状況は僕だけじゃない。
しかし、そうやって「気まずい誰か」を警戒しつつもなお、
多くの人はブログではなく、mixiを使うのか・・・?
僕は、この矛盾点がどうしても気になって仕方がないのです。