洞察力について―『ラスト・フレンズ』を楽しむための、一つの見方

「友だち地獄」

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

最近出版された新書に『友だち地獄』というのがあって、
これが面白い。
土井がここで指摘するのが、「優しい関係」という関係性だ。
これは、「あるがままの自分」を目指すがあまり、
周囲への過剰な気遣いを余儀なくされ、
そして周囲から浮いてしまわぬよう神経を使い、
その場の空気を読むというものだ。
鈴木の『ウェブ社会の思想』でも同様に指摘されているが、
ケータイのコミュニケーションというものも、
実は、この「優しい関係」に基づいて、
電話やメールが、「かける」や「送る」を通して
内容を伝達するという、本来のメディアとしての役割ではなく、
電話やメールをするという行為そのものが、
消費されていくというような、関係性へと変化している。
同様に、いじめについても、
この「優しい関係」を守るためのスケープゴートとして、
よりいっそう、問題が深刻化しているのである。


さて、その社会的問題は今回言及しないでおくとして。
果たして、その「あるがままの自分」というものは、
どんな問題を隠蔽しているのか。

「人間的」な人間関係

たとえば、友達関係と言う人間関係を見てみよう。
もちろん、いじめという社会問題をフィルターに見てみれば、
本来の、「人間的な友だち関係」構築ということなのだろうが、
では、その「人間的な友だち」関係とは何なのか。
「優しい関係」というものが
互いの気遣いを基本とした関係であるのに対し、
「人間的な友だち」関係というものは、
互いを気遣いせずとも成り立つ人間関係ということになる。
では、どうすれば人間関係は気遣いをせずとも成立するようになるのか。


その一つに考えられる方法としてあるのが、
まず、互いのドロドロした部分を認めるということである。
「優しい関係」がなぜ構築されるのかというと、
自己肯定感の脆弱性であるといえる。
誰からも傷つけられない、「純粋な自分」であればあろうとするほど、
実際はそんな関係を築くことはできないので、
そこに矛盾した関係が生まれるのだ。
とすれば、「純粋な自分」などありえないと思えばいい。
もちろん、他者にも。
人に傷つけられることもあれば、
自分が傷つけてしまうこともある。そう思えばいい。
そう思うだけでも、状況は変わるだろう。
そういう対立や葛藤を繰り返しながらも、
関係性はゆるぎないものへとなっていく。
そういう関係性を目指せばよい。


「純粋な自分」の脆弱な部分とは、つまり羞恥の部分でもある。
たとえ人に些細なことを言われたとしても、
そこでなぜ自分は傷つくのかといえば、
まさに自分の羞恥心を煽られるからである。
普段、自分が自分に対して嫌だと思っている部分を
他者によって掘り返されることによって、
自分は傷つくのである。
その嫌なことさえを言われなければ、自分も傷つかないだろうし、
自分がそれを言わなければ、他者も傷つかないのだ。
しかし、それが「優しい関係」を生むのだとすれば、
他者にその人が傷つくようなことを平気で言ってもよいのか?
それは、また違うだろう。


他者が傷つかないように配慮することが過剰になることは、
確かに、ここで避けるべきであるが、
それは、傷つくことを言ってもよいことではないのだ。
とすれば、「優しい関係」から脱するには、
自分から、その羞恥をさらけ出すしかないのだ。
「優しい関係」とは隙のない人間関係である。
しかし、そこに自分が羞恥をさらけ出すことによって隙を見せ、
またそれを自分だけでなく、皆がすれば、
閉鎖的な関係性は、風通しのよく開けたものになるだろう。

ラスト・フレンズ』について

この、人間模様を描いているのが、
今クールの連続ドラマ『ラスト・フレンズ』であるといえる。


閉鎖的な関係性としてわかりやすいのは、
美知留(長澤まさみ)と宗佑(錦戸亮)の関係である。
宗佑は美知留に対してDVを働いていたのだが、
それは、美知留に対する愛情という「純粋な自分」の像から
映るはずの、理想の美知留のイメージと、
実際の美知留のイメージにギャップが生まれるからこそ、
二人の関係に不全感が生まれ、
そしてその反動として、実際の美知留を暴力という形で支配することで
自分にとっての理想の美知留のイメージへ実際の彼女を
近づけようとするからこそ、DVが働かれるわけだ。


一方で、対極に描かれているのが、
瑠可(上野樹里)、タケル(瑛太)、
エリ(水川あさみ)、友彦(山崎樹範)の住む、シェアハウスである。
シェアハウスとは、食堂・風呂・リビングが共有となり、
それぞれの個室も存在する、共同住宅であるが、
共通の食卓としてのリビングが、
この4人と美知留の開放的な人間関係を育んでいく。
美知留の、自分がDVを受けているという「秘密」が
次第にこの4人の間で明らかになっていくことで、
美知留は、自分にとって大切な存在が宗佑だけではないことに
気付いていく。
そして、宗佑との閉鎖的な人間関係から次第に開放されていくわけだ。
美知留は、最初宗佑との同居生活を、幸せなものであると感じていたが、
実際にそこで暴力を受けていると暴露することは、
彼女にとって羞恥心をさらけ出すようなものである。
しかし、その羞恥の事実が、
特に瑠可によって明らかにされていくことが、
結果的には、彼女が宗佑との別離を決断することに導くのである。


では、その力とは何だったのだろうか?
性同一性障害に悩む瑠可は確かに美知留に対して好意を持っており、
その好意が美知留を解放させたのかもしれない。
しかし、本当にその好意だけが、解放の条件だったのか?
敢えてこれが、性同一性障害の瑠可だったところに、
この作品の、特に美知留の解放における意味があったのではないかと考える。
私は前回の文章で、恋愛は他者との同一性による一体によって生じるとしたが、
とすれば、瑠可と美知留の間には、何らかの同一性があったのだろう。
一見、超然と一人でいるように見える、瑠可は
「人が怖いだけなんだ。今だって自分の心の中にある
一番大事なことは人に話せていない、誰にも。」(第一話)
と言っている。
しかし、美知留が家庭の事情で困っているときに
瑠可が相談に乗っていたことからも、
そこで瑠可が、「人に誰にも言えないこと」という「秘密」を
美知留と共有した気になる、つまり同一性を実感したからこそ、
好きになったのではないか、と想像がつく。
とすれば、美知留の解放に瑠可が執拗にまでこだわったのも、
その「秘密」を洞察したからこそなのではないか?
つまり、瑠可の好意よりも、洞察力こそが、
美知留の解放に最も力となったのではないのか。

とすると、洞察力とは?

では、洞察力とは何なのだろうか。
それを説明するために、上野千鶴子が述べていることが参考になる。

この『現代社会の社会学』の中に上野の
「<わたし>のメタ社会学」という文章が所収されており、
ここで上野は、「情報」とは何なのかということに言及している。


上野によれば、「情報」とはノイズであるという。
自己と他者の関係がここにあると仮定する。
自己とは、自分にとって自明なもの、当り前なものであって、
そもそも情報にすらならないものである。
一方で、他者とは自分にとって疎遠な異質の存在であって、
認知的不協和のせいで情報にならない。
「情報」とは、この間に存在するもので、
自明性と異質性の間で発生する齟齬であるといえる。


洞察力とは、その齟齬に気づく力であるといえないだろうか。
その齟齬に気づくためには、
まずそもそもの自明性に対して疑いの目を向けなければならないし、
また、異質性に対しても自己が受容できるようにならなければならない。
その訓練とは、
前者のためには、たとえば読書や禅修行のようなもので、
後者のためには、たとえば他文化に積極的に触れることなどで、
訓練することによって、素養されるものであると考えられる。
その結果、自分という存在は、ノイズを「情報」に変換することができる、
すなわち、他者を洞察することができるようになるのである。


ところが、他者を洞察するには、
自己が一貫していたり、確証的な存在であってはならない。
もしそうだとしたら、自明性に引きこもってしまうことになる。
(いわゆる「ひきこもり」や「外こもり」とはこの結果、なるものだ。)
その自明性に常に疑いの目を向けており、
そして他者に「聞く耳」を持っている者こそが
他者を洞察することができるのであって、
一方で、自明性の世界に閉じこもっている者には、
一生、他者を洞察することなどできないのである。


洞察力というものがこういうものであるとすれば、
冒頭の「純粋な自分」を演じようとする「優しい関係」では
他者を洞察することなどできないのである。
先ほど私は、羞恥を暴露することによってこそ、
開放的な人間関係を構築することができると述べたが、
とはいえ、羞恥を暴露することなど、難しいものである。
わかっていても、人間はそれができない。
とすれば、結局のところ、
開放的な人間関係を招くものは、他者を洞察することのできる力に
委ねるしかないのではないか。
そのためには、「純粋な自分」をあきらめ、
自分という存在はそもそも脆弱であると認めるしかない。
また、過剰な配慮の関係性の中でも、
少なくとも自分の時間を作って、自分の空間を作るしかない。
そして、自分に対する自明性を疑ってかかることが
できるようにならねばならないのだ。


「あるがままの自分」を演じることは、こうして、
人間の脆弱性を隠蔽してしまう。
その脆弱性に対して、どうアプローチするのか。
一つはこの洞察力によるものであるのだが、
それだけで他者の人間的な脆弱性へアプローチができるのか。
アプローチのためには、洞察するだけでなく、
実際に接近するという作業が必要なのである。
これについては、後ほど「介入(もしくは干渉)」というキーワードを通し
考えてみることとする。
しかし、なんにせよ、スタートとして、
洞察という気づきが、そのアプローチに向けて
必要であることは、間違いなさそうだ。