マニュアル依存的態度について

これから接客についての話をまず始めていくわけですが、
そこでどこかの店に何か文句を言い出すのかというとそうでもない。
まぁ、文句は文句かもしれませんが、これは根本的な問題点についてです。


最近ますます腹が立ってきているのは、
「会員カードはお持ちですか?」「ポイントカードはお持ちですか?」
という、マニュアル文句です。
まぁマニュアルなんで、何のために言っている、とか言い出すときりがないですが、
そこはいいとして、
店員はもっと臨機応変にそれを対応できないのか、と思うわけです。
毎回毎回聞いてくることはもちろん腹が立ちますが、
最も腹が立つのは、特にブックオフとかツタヤでは日常的に行われている、
こっちがカードを出そうという態度を取っているのにもかかわらず
その行為の最中に、「会員カードはお持ちですか?」と言ってくること。
「おい、客が今何してるか見とらんのか、ボケ」と言い出したいところですが、
まぁここは大人なので大人らしく、
怒鳴ることもなく、いちいちクレームを出すこともなく、
それでも「はい」といつもカードを出しているわけです。


そのときの心情は、子どものとき、
学校の宿題を今まさにしようとしているとき、母親が部屋に入ってきて、
「あんた、勉強してんの?」と怒鳴ってくる状況に、
まさしく似ているわけです。
子どもにしてみれば、
「はぁ?今まさに勉強しようと机に向かってたところやんか」
という気持ちになって、そしてそう母親に怒鳴り返す。
そうすると、母親が
「またそういうこと言って!いつもそう言ってごまかそうとしてるでしょ」
と言ってくるものだから、ただでさえ勉強のやる気が落とされた上に
余計に勉強したくなる、なんてことは、
日常茶飯事に、いろんな家庭で起きている話です。


さて、そこで考えてみたいことは、
なぜ、そのときその店員は客の心情を察することができないのか、
あるいはなぜ、母親は子どもの勉強に向けていたやる気を察することができないのか、
そして、なぜそういった発言を、いつもいつも放ってしまうのか、ということです。
確かに、ツタヤやブックオフの多くの客が
いつも会員カードやポイントカードを出し忘れているのかもしれない。
しかし、それは多くの客に過ぎず、全員ではないわけだし、
また、毎日毎日見せに通えば、
客の方だって「あ、ここでカードを提示するんだな」ということは学習するし
いちいちそんな「カードはお持ちですか?」といわれなくても
カードを提示することくらいはわかるようになるはずであるわけです。
あるいは、子どもだって、
確かに、いつも外で野球してたり家の中でテレビゲームばかりしてて、
母親に「勉強しなさい」と言われなきゃ勉強しないかもしれない。
しかし、たまには学校で興味を持ったことが宿題になったりとか
あるいはその宿題をしなければとんでもない目にあったりとかいうこともあるわけで、
いちいち「勉強しなさい」といわれなくても
自分から机に向かうことだって、大いにありえるわけです。


なぜ、日常的にそうしたマニュアル的な発言しかできないのか、ということを考えると
いろいろな答えが浮かんでくると思います。
例えば、その店員や母親は、客や子どもを見下している、ということ。
カードは最初から出さないんだろ。
だったら、効率的にレジをこなすために、
同じ文句をそれぞれの客に繰り返せばいいやん」とか、
どうせこいつは勉強しないんだろ。
でも、部屋に行って「勉強しなさい」と一発怒鳴れば
少なくとも机には向かうに決まってる」とか。


まぁそれはそれでありえるとは思いますが、
とりあえず今回は別の側面から考えることとして、
例えば他にこんなことを考えてみることにします。
その店員や母親は自分の果たすべき役割を全うするために
最低限、マニュアル的な発言をすればいいや、と思っている、ということ。
「ビデオをレンタルしに来る客はどんな人かわからない。
黙って金を払っていく人もいれば、愛想がいい人もいる。
しかし、クレーマーがきたとき、どう対処したらいいかわからないから
とりあえず
マニュアルに書いてあることを言っておこう。」とか、
「成績の悪いうちの子を勉強させるにはどうしたらいいのか見当がつかないわ
でも、もし成績が悪くて何か起こったとき、
私(親)の責任だとか言われるのは嫌だから、
とりあえず「勉強しなさい」と言っておこうかしら。
そしたら、どんなときでも、
「私は勉強しなさいと言ってきたわよ。でもあの子が勉強してこなかったの。」
と言い逃れできるわ。」とか。


こういう責任逃れ的な発想から
そうしたマニュアル依存の発言が生み出されると仮定したとき、
その店員の臨機応変の接客能力だとか、
その母親の教育力だとか言ったものに信用が置けなくなってくるわけです。
例えば、イギリスをはじめ欧米の店の場合は
店員と客の間では、そうした機械的な会話は行われないし、
ときには、雑談や冗談を交わすほどです。
また、親子関係にしたって、
親がいちいち「勉強しなさい」と命令しなくても
子どもはのびのびと勉強に励んでいるという家庭はいくらでもある。


そうしたマニュアル依存を続けていくと、
マニュアルに書いていないことには対応できなくなる、
ということは言うまでもないことです。


例えば、前者の例を考えましょう。
京都には外国人観光客が多くやってきます。
ある日、私が河原町三条のある和食チェーン店に入ったときのこと、
まぁ日本食を手軽に食べてみたい外国人にとってみれば
チェーン店だろうが地元の店だろうか、よくわからないわけですから
外国人も客として入ってくるわけです。
私はそのフランス系であろう外国人客の隣の席に座っていると、
その外国人客が店員のおねえさんを呼び止めて
グラスを持ちながら、"Water!"と言っているわけです。
しかし、そのおねえさんはどうも英語ができないのかそれが聞き取れない。
結局、英語のできる別の店員を呼んで事なきを得ていましたが、
私が疑問に思ったことは、その英語ができないこと(も疑問ですが)はいいとして、
その外国人客がわざわざグラスを持ち上げながら注文してくれているのに
なぜ"Water!"が聞き取れなかったか、ということです。
またその後も、日本語が全くわからないその客に対し、
品を出すときに「○○です!」といいながら出していたわけですが、
そんなことを言ったってその客は日本語を聞き取れるわけないわけですし、
せめてその英語のできる(であろう)店員がずっとその客担当にするとか
そういった対応ができなかったのかな、と思えてしまったわけです。


また後者の例を考えてみても同じです。
子どもも大人と同じ人間です。機械ではない。
「勉強しなさい」と言えば必ず勉強するなんてことはありえないし、
むしろ「勉強しなさい」の一言が子どもをグレさせてしまうかもしれない。


マニュアル依存の態度ではこのようにマニュアルに書いてない問題に対して
対処することができないわけです。
逆に言えば、マニュアル以上の、
店員と客、あるいは親と子の間におけるコミュニケーションについて
きちんと対応すれば、対処が可能であるわけです。
相手が何を思っているのか、そうしたことは当然、
コミュニケーションにおいては求められるわけですが、
マニュアル依存が強まるにしたがって、
そうした当たり前のことは忘れられてきたと言ってもいいのです。


マクドナルドやフォード、あるいは育児雑誌などといった、
マニュアル主義を構築した文化は、
確かに大量生産や育児不安解消など、効率的な物事の遂行に一役買ってきました。
そして、そうした文化こそが、私たちの本当に大事とすることを失ってきたわけです。
しかし、重要なことは、
マニュアルそのものにあるのではなく、
マニュアルに依存していれば何とかなるであろう、
という安易な意識にあるわけです。
そうした安易な気持ちさえなければ、
チェーン店で大変な思いをする外国人客はいないし、
また、自分の気持ちをわかってくれないと思ってしまう子どももいないでしょう。
まず問い直さなければならないことは、
店員だからとか、親だから、といった
自分の果たすべき役割の上でどれだけ自分がなしえているか、ではなく、
役割を超えた、社会的人間として、
同じ人間である客や子どもの気持ちをどれだけ察することができたか、
そしてそれに対応できたか、といったことなのです。