門出の言葉について

サークルの後輩が、突然W大学への編入が決まったと言うので、
急だが門出の言葉を考えなくてはならなくなった。


門出と言えば、毎年僕は後輩や浪人した同輩が初春に大学入学を決めたとき
送っているものなので、不慣れと言うわけでもない。
しかし、いつもその自分の言葉が正しいかどうかと言うことには
疑念を抱いている。
ここで問いたいのは、
私がそこで言う、「これからは新しい可能性が広がっている。
誘惑に負けず、新たな気持ちを胸に、励んで欲しい。」みたいな言葉。


私がなぜそうした言葉を毎回選んでいるのかと言うと、
頑張れ、とか、よかったね、という言葉は非常に空虚と言うか、
何となく無責任な気がするからである。


門出というが、その門出が
何がしかの試験の合格であったり、昇格であったりしたとき、
当人にとって一番辛いのは、
それまでの関門を乗り越えようと言う努力よりも、
新しい世界での重圧に耐えることである。
それでも、なぜ当人が頑張ってこれたのかと言うと、
その重圧に耐えることは覚悟の上で
しかし、その新しい世界で何がしか求めたいことがあるからこそである。
門出で一番強調しなければならないのは、
それまでの苦労とそれからの明るい世界ではなく、
これからの自分の目標に向かってのまい進である。


そうしたことを毎回なぜ敢えて悩まなければならないのかと言うと、
「仮に自分がそういわれたとき・・・」というように
客観的に創造することが、少なくとも僕にとっては極めて困難だからである。
というのも、だいたい自分がそうした言葉を投げかけられるときは
自分は有頂天になっているし、
またそれほどまでに集中してそれに向かって努力してきているからである。
しかし、どんなに祝福されようとも、
その先の世界では、必ずと言っていいほど苦しい思いを一度や二度はしてきた。


結局、門出の言葉と言うものには、
必ずしも当人にとって実になることは含まれていないこととなる。
しかし、一番重要なのは、
その門出の際、それまでのあれやこれやを相殺して、
「今までいろいろあったけれども、これからは半永久的に仲良くやっていこうや」
という気持ちを伝えられるかどうかなのではないか。
当人でさえも不透明なその先の世界など他人に見ることなどできないのだから、
それまでの関係について振り返って、これからは仲良くやろうと言うことである。


実際、よく考えてみれば、それは教師と生徒の関係に当てはめることができる。
教師・生徒という関係のときは、
生徒の行いについて、時には叱咤して教師は正しさを教えなければならない関係だが、
いざ門出である卒業を迎えれば、
その後、OBが学校に帰ったときは、
必ずと言っていいほど教師は温かく迎え入れるのである。
それは、教師生徒間だけでなく、一人間同士の関係でも同じである、ということだ。


つまり、門出で一番重要なのは、
それまでの関係のあれやこれやを見直すと言うことなのである。
門出の言葉でどんなことを言ったってかまわない。
たとえどんな内容であろうとも、
相手にそれまでの関係とは関係なく温かい表情を見せられればそれでいいのである。
そして、後に互いが互いを思い返したとき、
「あいつとはいろいろあったが、あいつはいいやつだった」
と思い返せれば、それに越したことはない。


今の僕にとって一番幸せなのは、
もちろんその後輩がこれからの新しい世界の中で
無事生活でき、そして自分の目標に向かってまい進できることであり、
一方で、それまでのふがいない先輩の姿、一方の未熟な後輩の姿を
それぞれの頭の中で払拭できて、
そして今後は互いが一人の人間同士として関係構築ができることである。
その上で今回の門出の言葉が有意義なものであったかどうか、
未だに僕は判断ができない。