「14才の母」について その1

14才の母」は衝撃的でした。
まぁ衝撃的というか、衝撃的で終わらせてはならないところに
このドラマの特徴が見出せそうなので、
それについてちょっと述べておこうと思います。


ドラマの村瀬プロデューサーによれば、
金八第一シリーズのように年齢設定を15歳にするのではなく、
あえて14歳にすることに意味があった、
「14歳だからより重い現実なんです」。
ドラマのコンセプトが「命の重さ」であるとすれば、
まぁ確かにそこも重要なポイントかもしれませんが、
私はそれ以外にも重要なポイントがあるのではないか、と思うわけです。


第一点目は、カップルが一貫校の生徒であるということ。
まぁ普通に付き合って、「ちょっとアソんで妊娠しちゃいました!」
っていうパターンの一般的なイメージは、
「勉強せず学校にも行かないヤンキー」であるわけですが、
今回はそういうベタな設定ではない。
ドラマのコンセプトからすれば、
「妊娠の可能性は誰にでもある」というように片付けられそうですが、
私はそれ以上に、進学校だからこそ、という点に注目したいわけです。


そこで第二点目というか、注目したいシーンがいくつかあって、その一つですが、
三浦春馬演じる父というかここでの彼氏が、母親に5万円を渡されているシーンです。
5万円という額はもちろん中学生には大金過ぎるわけであって
それを中学生がまともに扱えるわけがない、
すなわちそれで中学生の基礎教育の不十分さについて考えることも可能ですが、
ちょっと違った見方をしてみると、
彼氏、つまり智志が5万円をゲーセンで使うときに
「親が気まぐれでくれただけだから」と言うわけです。


ちょっと第一話だけではわからないのですが、
智志とその母についての関係性を見てみると、
室井滋演じる智志の母が異様に「勝つこと」にこだわっていること、それから
「あんただってパパのことを見返してやりたいんでしょ」
と言っていることから考えると、
現在は母子家庭であることが想像できるし、また
その母、つまり静香にとってのルサンチマンの根源は、
その離婚であるし、またそれ以前のフェミニスティックな
キャリアウーマンの考え方であると言うことができるかもしれない。


あと、並行してもう一点注目したい点が、
志田未来演じる未希とその母親との関係性です。
まぁとりあえず第一話の最後の方で、
中学生の子どもを持つ母親は大変だ、
という話が出てきますし、
それ以前にも、未希に、何か心配事があったら私に言ってね、
というようなことを何度か言っている。
ベタな見方で言えば、ここから
中学生の子どもと母親とのコミュニケーションの難しさ、
というような考え方が導き出されるかもしれませんが、
そこではなくて、私が注目したのは、
ちょうど未希と智志がカツアゲにやられているときに、
田中美佐子演じる母、つまり加奈子が
未希の弟に、未希が帰ってこないことを心配するシーンです。
そこで、弟が「姉ちゃんのことを信じられないの?」と聞いたとき、
加奈子が少しためらって
「信じないんじゃないの、心配しているだけ」と答えたところです。
そして追って、「暇だなぁ」とツッコミを入れられると、
「あんたたちのために一生懸命やってるじゃない」と言う。


ここで一つ疑問なのが、
では、なぜパートまでして、未希を塾に行かせるのか。
その要因として考えられる点としては、
未希が成績が低空飛行である、という点くらいしか描写されていないのですが、
私がここで注目したいのは、
加奈子がパートをしている最中に、パート仲間に
未希が有名私立中学校に行っていることについて
「すごいですねぇ」と言われている点です。
加奈子はもちろん、専業主婦で、しかも一日中家の中に拘束されているわけではない、
つまり、どこかで未希が私立校に行っているという情報について
姑やいろいろな仲間といった第三者に接させないといけないわけですし、
そこで私立校に行っているのに成績が低空飛行だとは言えない、
将来有望であると自慢しないといけない、という自分の親としてのメンツのために
わざわざパートまでして塾に行かせている、とも考えられるわけです。


ここで話を智志に戻してみれば、ここも同じことが予想できて、
キャリアウーマンの親に、その競争心を強引にも植えつけられてきた、
アダルトチルドレン的な存在である智志について、
その母の静香にとってみても、
自分の子どもが何かに悩んでいるとなれば、
自分の競争心のプライドにも何らかの支障をきたすであろう、という
静香なりのメンツの問題も絡んでくるわけです。


さて、私が一番重要だと思う点は、
こうした宮台真司に言わせれば「終わりなき日常」の中にいた子どもが
どうやって生き延びようか、ということを考えるに至ったとき、
最終的には、「肌を接する」というコミュニケーションに落ち着けた、
という点にあると言えるわけです。
このドラマがなぜ進学校の子どもでなければならなかったのか、
あるいはなぜ郊外が舞台でなければならなかったのか、と言う点は
そこに集約できるのではないか、といえるわけですが、
今後は、北村一輝演じる波多野がその辺を暴露して行ってくれることでしょう。


ただ、ドラマが主題とする「命の重さ」を考えたとき、
果たして、この「肌を接する」という「終わりなき日常を生きる」手法が
正しいものであったのか、ということは問われてくると思います。
というか、私が今後注目していきたいのは、
母親が14歳である、ということの重みなのではなくて、
それを重くしている周囲の人間関係なんですよね。
連続ドラマと言うのは、プライムタイムのドラマであるだけに
概して、重いテーマになればなるほど、
さまざまな関係性を単純化させる傾向がある、
というか、そうじゃないと視聴者がついていけない、という点があるのですが、
そうすると、ベタな点だけに注目が集まりやすくなってしまうわけです。
確かに、「命の重さ」というテーマも大切なのかもしれませんが、
それ以上に、そのテーマに行き着かざるを得なかったのは何なのか、
ということこそ、視聴者は問わなければ、
このテーマの本質的な部分は見えてこないことでしょう。
ドラマが「社会派」であるだけに、
その点に視聴者は注意して見ていってもらいたいですね。