テロについて

まぁテロについてといっても
そんなに語れるほど知識はないですが、
とりあえず、テロについてどう思われているか、
ということについて考えて見ます。


テロについて、
国際的に特に話題となったのは
9.11以降であると考えることができます。
アメリカで起きたあのテロ以降、
ロンドンでも昨年同時テロが起こり、
また日本でも、いつ何が狙われるか、ということで
たまに話題になったりもします。
イギリスでは、昨年のテロに続き、
今月、ヒースロー空港でのテロ未遂が起きました。
おかげで、今は少し緩和されたみたいですが、
手荷物に関して厳しい規則が設けられましたし、
また、空港での治安維持もより徹底されるようになりました、


さて、そこでテロに対する人々の意識についてですが、
イギリスの人は、どうやら非常に危機意識を持っているみたいです。
まぁ実際に去年、今年とこれだけのテロ、あるいはその未遂がおきれば、
それも高まらざるを得ないのでしょうか。
まぁそれにしても、
新聞のトップを、事件以降延々と、テロ未遂についての記事が飾るなど
日本の新聞が他国のテロについて扱うのよりも
ずっと、人々の関心が高いことがそこからうかがえるわけです。
また、人々の話題によくテロに関する話がのぼる。
日本で友達と、たとえば家族と話をしている時に、
テロについて、あるいはテロの危険性について
果たしてどれだけ今まであがったことか。
それを考えれば分かると思います。


今回、イギリスでテロが未然に防止できたのは、
その危機意識のおかげである、とも考えることができるわけですし、
またそうも言われます。
人々危機意識が高ければ、それだけ国家もテロについての
防衛を行わなければならないわけです。
一方で日本について考えてみると、
いまだに、うわさで新幹線がやられるだとか言われることはあっても
実際に起こったことがないから
人々はそれを自分の問題であると考えたことはないし、
また国家もイギリスのようにテロを未然に防げるほど
防衛はしていないのではないかと思える。


そこでテロの防衛とは何かというと、
結局は、見えない外的な敵との戦いである、ということです。
もし、日本にとっての、まぁ北朝鮮だとすれば、
北朝鮮テポドンを撃つのをどう阻止するか、という
考え方になるわけですが、テロはそうではない。
国内にいる、自分たちの国民の中の誰かが、
テロを仕掛けるかもしれないし、
またそれによって自分が死ななければならないかもしれない、
と考えなくてはならない、というわけです。
そして、北朝鮮という、外的国家が敵だとすれば
実際に北朝鮮が自分たち日本を攻撃したということは
戦争行為である、そしてそれだけに国家的な準備が必要であるのに対し
テロというものは個人的な行動である、
ということもここで考えることができる。
国家的な問題である、すなわち本当に自分の問題かどうか分からないのであれば
それだけ自分のそれに対する関心も低くなる、ということです。


テロというものについて考えるためには、
このように非常に個人的な関心が基盤となる必要があると
いうことができるわけです。
それが仮に、国際的に認められないだとか、
そうした観念論に、特に社会的議論が終始することになれば、
結局、多くの人にとって無関心な出来事とそれが化し、
そして、他人事のように議論の答えが導かれることとなるわけです。


また、それは日本にとっての靖国問題でさえ、同じです。
その靖国問題の、文化、歴史、その他の具体的な問題の経緯は別としても
靖国問題についてどう考えるかということについて、
結局は自分の問題のように考えることができないからこそ、
他人事のように解釈されてしまう。
小泉首相が15日に参拝するということが、
果たして国際的にどういう影響を及ぼすのか、
歴史的・文化的にどういう意味があるのか、意味を成すといえるのか、
政治的に正しい行動であるといえるのか、
その賛否がどう結論付けられるにせよ、
そうした論理的な解釈が個人の中で行われようもないわけです。


このように日本のテロだとかいった社会的な議論というのは
その多くが他人事であると考えることができるわけですし、
また、逆にイギリスにおいてテロについての関心が
これほどまでに高まったのは、
テロというものが国家的以上に個人的な問題として
個人の中で解釈されうるものであるからである、
と考えることもできるのではないでしょうか。