「島宇宙」としての「コミュニティ」

「足あと」、「マイミク」、「日記」とくれば、
次は「コミュニティ」についてです。

コミュニティと聞くと連想されるのは、
社会とか、仲間とか、そういった単語ですが、
このミクシの「コミュニティ」は少し様子が違う。

社会学で言えば、コミュニティについて、
マッキーバーにより定義されています。
彼によれば、アソシエーションが
連合だとか結社だとか、目的性のあるものであるのに対し、
コミュニティとは、地域だとかいう、
全体性や地域性をもったものである、とされます。

ミクシの「コミュニティ」が後者ではないとして、
それでは前者なのでしょうか?
まず問題としたいのはこれです。


いろんな人の「コミュニティ」を眺めていると、
例えば僕なんかを例に取れば、
社会学」や「教育社会学」、「大学院進学希望者」など
それこそアソシエーション的なものもあれば、
世田谷学園」「国分寺第五小」(以上卒業校)、
同志社」「同志社大学」「同志社大学商学部」(以上在籍校)
などといった、それこそコミュニティ的なものもある。

ただ、これは僕の例に過ぎない。
僕の「コミュニティ」はそれしかないのです。
注目すべきは、他の人にはそれだけでなく、
「マイミク断りません!」とか、
「バトンお断り」など、
コミュニティでもアソシエーションでもない、
果たしてその「コミュニティ」に入ったからといって
では何が起きるのかという「コミュニティ」もあることです。
こうした「コミュニティ」は、
その「コミュニティ」内で何があるか、というのではなく、
「コミュニティ」外、すなわち、自分のトップページや
自分の「コミュニティ」一覧を見る他人に、
それを伝達するための手段であると言うことができます。

というように、
コミュニティ・アソシエーションに分類できるか否か、
という基準で「コミュニティ」を分類しましたが、
果たして本当にそれはできるのでしょうか。
確かに、後者の中ではメンバーが数百人いるにもかかわらず、
掲示板やレビューが全く機能していないものもあります。
それは、ここでは完全な後者であるとしましょう。
しかし、ここで
「日々何かに追われてます。」という「コミュニティ」を
例にとりましょう。
すると、掲示板では「追われてないと不安?」など
実はさまざまにトピックがたっているのです。
掲示板がその分類の基準にはこれでなりえなくなります。

にもかかわらず、ではそこで、
トピック全体で論理が成立しているかというと、全くない。
結局、「自分は追われています」ということを
各人が延々と書き連ねるだけなのです。

しかし、アソシエーション的と先ほど述べたような
「コミュニティ」でも、それは起きているのです。
水谷修」を例に挙げてみましょう。
水谷修とは、巷で言う「夜回り先生」のことです。
彼に関連した「コミュニティ」は複数あって、
それこそ彼に実際に助けられた人たちだけのものもあれば、
夜回り先生としての彼をピックアップするものもある。
私の属する「コミュニティ」は、
水谷修という人物そのものについてピックアップするものです。
しかし、実際「コミュニティ」内の掲示板で議論されるのは、
もちろん「彼の言葉に感動してばかりなのはいかがなものか」
などといった議論もあるものの、
たいていは、「彼の言葉に感動しました!」と言う言葉を
とりとめもなく続けていくに過ぎないのです。

つまり、ミクシの「コミュニティ」とは、
マッキーバーの定義には全くあてはまらないのです。
必ずしもコミュニティのように固定的でもないし、
アソシエーションのように必ずしも目的はない。
しかも、公開された公の議論の場において
私的な感想を連綿と続けていく、そんなケースが多いことが、
ミクシの「コミュニティ」の特徴だということができます。


さて、そういった特徴を引き出したとき、
それでは2ちゃんねるの議論と、
「コミュニティ」の議論はどう違うのか、
ということに注目しなければなりません。
言うまでもないことですが、
前者は匿名性で、後者は登録制であるという違いはあります。
つまり、前者は完全にオープンであって、
誰に書き込んだことが読まれているかわからない、
逆に言えば、誰が書き込んでいるかわからないのに対し、
後者の場合は、紹介がないと使うことすら許されていないし、
誰が書き込んだかをメンバーのみに公開するように設定すれば
誰が見ているかすらも監視することができる。
つまり、おおまかに言えば、
ミクシによって、安心して書き込める環境が整えられた、
ということができるのではないか、と思います。

それが議論の出発点です。
目指すべきところは、「コミュニティ」とは何なのか、です。
端的に言うと、一言で答えは出せない。
前述のように、「コミュニティ」というのは
それぞれがそれぞれ味をかもし出しているからです。
ましてや、閉鎖的な「コミュニティ」など
外部から見て、特徴など述べるわけにもいかない。
逆に言えば、2ちゃんねるからミクシに乗り移ることで、
プライベートな話題を安心して議論できるようになった、
ということができると思います。
だからこそ、外から見たところで
「こうだ」と言い切ることができないわけです。
それが特徴だとも言うことができます。
もう少し議論を具体的に進めていくとわかるかと思います。


それは、まず2ちゃんねるとミクシのネタの違いに
見ることができると思います。
例えば、2ちゃんねるの場合、
多くは、例えばテレビだとか、新聞とか、
あるいはそれこそゲームとか、漫画とか、スポーツとか、
そういったいわゆる大衆的なものです。
中には、それこそ特定の学校とか、
あるいは注目されないような芸能人だとか、
そういうものがトピックになっていることもあります。
しかし、あまりにも話題が続かなければ、
そのトピックは強制的に廃止されてしまう。
つまり、話題が続かなければ、
言い換えれば、話題が続くような話題を提供できなければ、
2ちゃんねるでは話題とならないのです。

一方で、ミクシの「コミュニティ」の場合は、
もちろんそれこそ2ちゃんねるのようなトピックもあります。
しかし、多くの人が、
プライベートなデータをトピックとした「コミュニティ」に
必ずと言っていいほど、一つは属しているのです。

もう一つ、両者の違いに、
独特の言い回しが存在しているかどうか、ということが
挙げられると思います。
2ちゃんねるの場合、
まぁ具体的に挙げるまでもないことですが、
「2ちゃん語」という独特の言い回しがあります。

しかし、それでは「コミュニティ」にそれがあるかというと、
それはないわけです。
むしろ、そうした言い回しについては、
各々の「コミュニティ」に委ねられているといってもよい。


さて、逆にそれでは両者の共通点を考えて見ましょう。
それはオンラインという公の場において、
私的な感想を述べることのできることです。
しかし、いくら述べる内容が私的であろうと、
場そのものは公なのであるから、
言い回しなどの慣わしには従わなければなりません。
これは2ちゃんねるで「空気嫁」といわれるようなことです。

つまり、「2ちゃん語」とは、
ニュースや芸能だとか言った、
そういったより多くの人に通じるような話題を、
しかし、どんな地域の、どんな年代の、
どんな階層の、誰が見ているかわからない、
そんな中にあって、編み出されたものである、
と考えることもできるかもしれません。

しかし、逆に考えれば、
そうした共通の言い回しがないミクシにおいては、
そういった誰にでも通じると思われていた話題が、
もしかすると通じないかもしれない、ということを
示唆するものであるかもしれないのです。

同時に、その独特の言い回しの背後には、
2ちゃんねるが匿名性であるだけに荒らしが多いことも
あるのではないか、と思います。
例えば、「上戸彩」のトピックだったとしましょう。
しかし、必ずしもみんなが上戸彩が好きとは限らない。
上戸彩が嫌いだが長澤まさみが好きで、
しかし長澤まさみのトピックを検索していたら
上戸彩のトピックにたどり着いてしまったとき、
誰でも書き込めてしまうのです。
そして、アンチ上戸主義の内容を書き込んだとしても、
その「空気の読まなさ」の責任が
直接自分の身に降りかかってくるかというと、
ないわけです。
なぜなら誰が書いたか特定されえないからです。

しかし、ミクシの「コミュニティ」で
上戸彩」のコミュニティに、
アンチ上戸主義なのに入ってしまったとしましょう。
そして、掲示板にアンチ上戸主義の内容を書き込んだとする。
そして、例えば「上戸彩って整形なんだってねー」とか、
上戸彩中絶疑惑って本当なの?」とか、
そんな事実かどうか怪しいが
アンチ上戸主義者に受けるネタをトピックとしたとしましょう。
そのとき上戸ファンにとって、
それは確実に「荒らし」だと判断されるのです。
上戸彩」についてのトピックであるのにもかかわらず。
とはいえ、現実にこうしたことが起こるとは
想像がつきにくいものです。
いや、それは実際にほとんど起きていないからこそ、
なのかもしれません。
登録制のミクシにおいてそうした行為を行うことは、
その行為の責任は必ず自分の身に降りかかってくるからです。


では、こんな例はどうでしょう。
先ほどの「上戸彩」の議論を引き続き考えることとします。
例えば彼女は最近、
アテンションプリーズ」というドラマに主演しています。
また、以前は「高校教師」などにも主演していました。
同時に、彼女の名前が全国的に知られるようになったのは
3年B組金八先生」の鶴本直役でしょう。
あくまでこれは私の個人的な感想です。
上戸彩のイメージはその鶴本直のような
ボーイッシュなイメージです。
つまり、「高校教師」や「エースをねらえ!」のような
ガーリッシュなイメージとはそれは違うものです。
すなわち、「アテンション〜」の美咲洋子は
鶴本直のようにボーイッシュだから、
「アテンション〜」の美咲洋子ははまり役だ・・・
こんな意見を、「コミュニティ」に書き込んだとします。
そのとき、必ずしもそれが同意されるかというと、
それはありえないわけです。
もちろん、中には「高校教師」の町田雛
「エース〜」の岡ひろみがはまり役だという人もいる。

つまり、こうした私的な感想を公的な場で書き込むことで、
感情の誤配性が発生するわけです。
自分の考えが、他のメンバーにとって受けるとは限らないのです。
しかもミクシは誰が書き込んだか判別できるので、
その書き込みによって起きた問題の責任を
自分が負わなくてはならない。

逆に2ちゃんねるというのはその分気楽です。
なぜなら、人と違う意見を書き込んだとしても、
「お前氏ねよ」とかいろいろレスされるだけだからです。
別に責任を負わなくても済む。
しかし、ミクシの場合、異論を唱えた瞬間、
その場の雰囲気を壊すことになり、
自分でその責任を負わなくてはならなくなる
(と思ってしまう)わけです。

つまり、2ちゃん語などのような、
共通の媒体がない「コミュニティ」において、
より一層、感情の誤配性は高まっているのです。
すなわち、「コミュニティ」において、
本音を書き込みづらくなるわけです。
むしろ、そういった大きな話題を避け、
自分の通っていた学校だとか、
自分の入っているサークルだとか、
そういった、より一層プライベートな話題へと
ミクシアー(ミクシを使う人)の興味はひかれていくわけです。


そうしてより一層プライベートな情報に
「コミュニティ」の話題が集中されていくとき、
ミクシの「コミュニティ」は「島宇宙化」されていくのです。

島宇宙」とは、宮台真司がよく使い、
もはや社会学などでは一般的に使われるようになりました。
つまり、小さな単位の「コミュニティ」内では
話題や興味は共通付けられるけれども、
「コミュニティ」間を共通付けるような話題には、
各人はまったくもって無関心なのです。
いや、本当は無関心ではないのかもしれません。
関心はあるけれども、発言することを躊躇しているのかもしれない。

もちろん、その「島宇宙化」は、
登録制の生み出す感情の誤配性に起因している。
そして、プライベートな話題ではない、
大きな話題をトピックとする「コミュニティ」は、
それによって議論が成立しにくく、
そして、ただ単にそこに属していることをアピールすることだけが
「コミュニティ」に属する意味となってしまう。

しかし、ここで問題とされなければならないのは、
本来のSNSの性質である、
「コネ」や「ツテ」など社会的関係を作り出す目的からすると、
本当に「コミュニティ」がこれでいいのか、ということです。
より新しい「コネ」や「ツテ」を作るために、
島宇宙化」してしまって、
各人のコミュニケーションが内向化してしまっていては、
感情の誤配性があまりにも大きな負担となるのです。

とはいえ、ミクシアーにとって、
実際、そういう意味はどうでもよかったのでしょう。
いや、どうでもよかったからこそ、受けているのかもしれません。
2ちゃんねるのコミュニケーションが
ネタの絶え間ない戯れであるのに対し、
ミクシの「コミュニティ」のコミュニケーションは
より内向的なネタを「まじめそうに」議論するが
逆にその議論についていけない人に対しては排他的なのです。
そうした意味で、ミクシの「コミュニティ」は、
自分のプライベートな空間の中のつながりを維持する道具として、
あるいは自分のプライベートデータを明らかにする道具として、
島宇宙化」されたより内向的なコミュニケーションを
可能とする場として、今後も支持されていくのではないか、
と言うことができるのだと思います。