ネタとしての「日記」、ネタの連鎖としてのレス

2回前にブログとミクシの比較をしました。
そのときの私の見解では、
ミクシには「足あと」があるが、
ブログにはそれがない、ということでした。

さて、私たちは、ブログであれ、ミクシであれ、
なぜ「日記」を書くのでしょうか?
日記と言えば、いわゆるノートの昔からある日記もあります。
しかし、なぜそれをインターネット上でして、
しかも、人の見ているブログやミクシでするのか。

匿名性についての議論と
少し順番が逆転してしまったかもしれませんが、
こうしたことについて考えてみなくてはなりません。
紙の日記とオンラインの「日記」、
別にどちらで書いてもいいのなら、
なぜ、わざわざ人に見られるオンラインの「日記」に、
こうして書く人がいるのでしょうか?

答えは単純です。人に見られたいからこそ、
オンラインの「日記」に書くのです。
人に見られて、レスされるのを期待しながら、
みんな書くわけです。


まず、私たちが書く日記について検証してみましょう。
日記というものは、その日の終わりにでも、
その一日を振り返って記録に残すものです。
日記があれば、何年後かにそのノートを取り出しさえすれば、
そのとき自分何を考え何をしていたかがすぐわかる。
いや、それ以上に、日記を書くということを通して、
その一日に起きた出来事なんかに対する自分の考えを
整理することができるのかもしれません。
かつての日記というものは、そういうものでした。

一方で、オンラインの「日記」は、それにとどまらない。
例えば、「今日はこんなことがありました〜」なんて言って、
携帯で撮影した写真を載せることもあります。
それは、文章だけの日記に写真を添えるにとどまらない。
例えば、ペットや家族の写真なんかを貼ったとすると、
「ペットのポチで〜す。かわいいでしょ」みたいに
人に見られることを前提としたものが目立ちます。
しかも、それはパブリックな話題にとどまらない。
ペットや家族や友達や恋人などプライベートな内容や、
あるいは、事件、芸能、スポーツなど、
話題を提供する内容ばかりであるのが特徴です。
したがって、オンラインの「日記」は紙の日記に比べ、
プチコラム的な素質が大きいと言うことができるでしょう。

私たちは、後者は別としても、
なぜプライベートな内容をこうして暴露するのでしょうか。
そもそもプライベートの意味は、
パブリックではない、ということ。
すなわち、公から隔離された場所であるはずです。
公の場所に私を暴露しなければならない理由、
それは、見られたいという欲望が存在するということで
説明できるのかもしれません。
それは、いわば、「現れる欲望」です。


少し話がそれますが、
そもそも、公において現れるために、
元来そこで隠さなければならない情報を
なぜわざわざさらけ出さなければならないのでしょうか。
それは二通り考えられるのだと思います。

まずは、自己顕示欲が高いという理由。
中には、なんでもかんでも自分の情報をばらまく人もいます。
しかし例えば、
「今日は友達と喧嘩しました。あいつは馬鹿だと思います。」
などと書いたとき、
いくらプライベートな話題であれ、
その喧嘩した相手がその文章を見たとき、
余計に人間関係が悪くなるのは明白です。
しかし、実際そのようなことは起こっているとはいえ、
毎日毎日起こるわけではない。
私たちは、いくらプライベートを暴露しているとは言っても、
暴露する内容と暴露しない内容を、
こうして事前に選別することが可能なのです。
すなわち、自己顕示欲が高いということは
直接的には理由になりません。

むしろ、ここで着目したいことは、
そうして自己顕示欲が高いものの暴露できなかった内容が、
情報を選別できるようになったことで、
暴露できるようになったということです。
かつては、公では世間や市民という立場に立つことが
求められていました。
しかし、公において私のままでいることが可能となった。
だからこそ、「みんな」が見る、という公の中で、
私たちは、「私は〜」という私的な内容をさらけ出すことが
可能となった、ということができるのです。

その結果として起こったのが、次のことです。
その自己顕示欲、つまり「現れる欲望」が
みんながみんな強くなってしまったがゆえに、
かつて自分が「現れる」ことで
変な視線で「見られている」ことから不安を覚えていたのが、
むしろ、視線すら送られなくなった。
その結果、「見られたい」という欲望が起こった、
と考えることができるでしょう。
「見られたい」と思うがゆえに、
かまって欲しい、とか、
自分の悩みを聞いて欲しいとか、
そうしたプライベートをさらけ出すことに
つながっているのではないか、と考えることができるのです。

その「現れる欲望」の結果、起こったのが、
「見られたい」という欲望、つまり監視社会化です。
ミクシにおいては、「足あと」です。
ブログにおいては誰に見られているかわからなかった、
ミクシにおいては「足あと」で誰が見ているかわかるから
そっちに流れた、という人もいることでしょう。
「足あと」については2回前を参照してください。


さて、この「足あと」と似たようなことが、
レス機能にいうことができるのだと思います。
自分のプライベートな生活だとか、悩みだとかを
「日記」に書き込めば、誰かがレスしてくれる。
別にそのレスの連鎖に意味や方向性はありません。
「日記」で、例えば「ペットのポチで〜す。かわいいでしょ」
という内容だったとしましょう。
そうすると、レスは、
A「かわいいじゃん」
B「え〜うそ!私の太郎の方がかわいいよ〜」
C「そうそう、そういえば同じ犬種、
近所のペット屋で手ごろな値段で売ってた。かわいかったなぁ〜」
などなど、とりとめもないし、到達点などありません。
ここでは、レスというものは、その連鎖を通じて、
お互いがコミュニケーションをしていることが重要なのです。

つまり、「日記」のネタについて考えることなど
ここでは重要ではないのです。
お互いに考えていると言うよりは、
むしろ再帰的に考えているだけなのです。
例えば、先のポチの例で言うと、
ポチに対する感想など千差万別です。
つまり、そのイメージは、
私たちのいわゆる「ポチ」のイメージだとか、
ペット犬のイメージだとかいったイメージについて、
感想を言っているのに過ぎない。
すなわち、その私たちのイメージと、「日記」のポチとを
再帰的に往復して考えているに過ぎず、
「日記」を書いた人がどういう意図で書いたかなど、
レスする目的に、結局は関係ないのです。

一方で、何でもかんでも好きなようにレスすればいい
というわけではないことも言えます。
ポチの例のABCのように、
レスしている内容は三者三様です。
それはお互いのキャラに基づき、
レスのネタを考えた結果と考えることもできます。
レスとは、再帰的に自己を振り返るだけでなく、
そうして場面場面に応じてキャラを変え、
期待された役割を全うすることでもあるでしょう。
そうして「日記」を書いた人と自分のつながりを確認しあう、
レスもこうして自己の現れを確認する行為であることが、
やはり言うことができるのではないでしょうか。


さらに言えば、「現れる欲望」を前提とすれば、
こうしたネタ性はレスだけでなく「日記」にもいえるのです。
現れたいと希望するのならば、
「足あと」だけでなく、レスも希望するのです。
ネタであるレスを希望するために、
「日記」もパブリックな話題ではなく、
プライベートなネタになるわけです。
これはもはや、過去・現在・未来を自分で振り返るような
紙の日記とは異なるものとなったのです。
だからこそ、
他の人が見ているオンラインでプライベートな内容を暴露し、
レスが続くことを期待する。
「日記」というものは、
こうしたつながりあいの確認に過ぎないわけです。

レスという機能はそうしたつながりあいの確認と言う
楽しさを提供した一方で、かえって、
紙の日記の持っていた、
自分の中で自分を振り返る、という機能を失わせたともいえます。
つまり、「日記」はそれ自体自己目的的なものに過ぎないのです。
「日記」とレスの連鎖が行き着くところは、
お互いのつながりあい以上にはないのです。
「日記」を書いてレスをしたって、
結局、何らかの弁証法的結論が出るわけでも何でもない。

そうした結論が出ないかわりに、
だからこそ、「感動」や「楽しさ」が生まれるのです。
ポチの例で言えば、
ポチの写真を撮ってネタにすることや、
それについて感想を言い合うことそのものが楽しいし、
また感動なのです。
逆に言えば、
例えば、誰かが危険な思想をネタとして書いたとしましょう。
極端に言えば、人を殺したい、だとか。
もちろん、これは倫理的に間違った思想です。
と、いうことで、
A「お前は間違ってる。人の命の大切さを知れ。」
B「人を殺したら牢獄行きだぞ。わかってんのかよ。」
などと攻撃的に批判をすることでしょう。
しかし、レスするということが自己目的化しており、
また、「日記」がネタであるという前提の中で、
仮に、この「人を殺したい」という「日記」が、
その相手が本当に憎くて、
どうしようもない孤独感を感じさせられ、
その結果感情の勢いが余り、書いてしまったとしましょう。
そんなコンテクストなど、
「日記」にはもちろん書かれないわけです。
でも、そんなコンテクストなど関係なく、
正義感あふれた攻撃的レスは連鎖する。
そして、「日記」を書いた人は傷ついてしまう結果に至る。
しかし、レスというものに結果という概念が存在せず、
目的が着目されるばかりにそうなってしまった、と考えれば
理解できなくもありません。
つまり、ここで「日記」やレスに結果が意図されたものなら、
そうならないのです。
結果を求めても、結果とは関係ない「結果」に行き着く。

つまり、オンラインの「日記」とは、結果、
性質的にこうしたネタ以外のなにものでもないのです。
「現れる欲望」そのままに、レスを通じてネタを共有して、
お互いのつながりあいを確認するのです。
しかも、サブカル的な内容より、
プライベートの方が食いつきがいいからむしろ好まれる。
だからこそネタを提供するバトンなどが流行するのでしょう。
こうして「日記」のとりとめもないレスの連鎖を通じて、
私たちのつながりあいは可視化されていくのです。

前回「足あと」と関連して「マイミク」言及しましたが、
今回は「マイミク」そのものについて触れたいと思います。

さて、僕がまず「マイミク」について疑問なのは、
友達の階層性がないことです。
よく巷では、
「恋人>親友>友達>知り合い>顔見知り>赤の他人」
といわれますね。
実際こういう線引きが一般的にはっきりしているかは
なんともいえません。
しかし、社会心理学のパーソナルスペース論が示すように、
同じ友達とは言えども、
その人との心理的距離というものはさまざまです。
同じように、この広い意味での友達は
ある程度、階層性が認められるのではないか、と思うのです。

さて、自己の情報の開示というものも
この階層性が基準となって行われます。
例えば、上記の「顔見知り」の人に
自分の悩み事は開示しませんよね。
逆に、同じ「親友」でも、
この情報は開示してもこの情報は開示しない、
というような使い分けがされるかもしれません。
つまり、「マイミク」の疑問はもう1ついえるのです。
縦の階層性だけでなく、
横の異質性もないのではないか、と。

では、結局「マイミク」でいう「友達」とは
いったいどんな友達のことを言うのでしょうか。
私はそれは「関係性」で「つながる」人間関係だと思います。


「マイミク」の友達一覧と似ているものとして、
携帯電話の電話帳機能をあげることができます。
(以下、これを「電話帳」としましょう。)
ある人と知り合ったら、まず番号・アドレスを交換します。
この儀礼は、もはや今では当たり前に、抵抗なく行われます。
そして、交換した情報は、
よっぽどのことがない限り、消されない。
すなわち、「電話帳」とは、
その結晶であると言うことができる。
言い換えれば、「電話帳」を見れば、
その人の交友関係の全体像がわかる、ということになります。

「マイミク」もそれは同じである、ということができます。
「コミュニティ」や「足あと」、
それから「マイミク」の輪で、過去の友達を知ったとき、
あるいは、自分と属性が似た人と知り合ったとき、
私たちは、「マイミク」登録をするわけです。
「マイミク」の友達一覧とは、
「電話帳」の一覧と同じように、
その交友関係の結晶である、ということができるのです。

まとめれば、
この「電話帳」と「マイミク」の共通点とは、
「友達」のデータベースである、
ということができるということです。
「電話帳」や「マイミク」がなければ
昔の、それこそ「顔見知り」くらいの友達は
時間も経てば、完全に忘れるところでした。
しかし、そのような人でも、時間が経っても、
「電話帳」や「マイミク」の一覧を眺めれば、
「ああ、あんな人もおったよなぁ」と
思い出すことができるのです。


では、「電話帳」と「マイミク」の違いは何か。
それは先ほどの階層性と異質性の有無にあると思います。
結論を先に言えば、
「電話帳」には階層性の違いはあらわれて、
「マイミク」にはそれがあらわれない、ということです。

まず、「電話帳」においてです。
階層性についてですが、「電話帳」において
より親しければ番号もアドレスも知っていて、
それほど親しくない場合はどちらかしか知らない、
ということがいえると思います。
また、いつも連絡を取り合うことが多い人は
「電話帳」のどの辺に記憶されているか、
すぐ頭に思い浮かべることができるでしょうし、
悩みを相談するような人であれば、
なおさら、それはいえるでしょう。

また、「電話帳」の異質性について。
メールや電話と言うものは、
用事があってこそ行われあうものです。
つまり、用事がなければメールや電話は行われません。
その用事は、それぞれのサークル、それぞれの会社、
それぞれの友達関係、などで違う内容を持ったものです。
したがって、ここに異質性が存在する、といえるのです。

一方で、「マイミク」にはそのようなものはないのです。
「マイミク」に登録されれば、
「友達」の「日記」が、
自分のトップページにRSS表示されます。
その「日記」の内容がどんな内容であれ、
そのRSS表示は必ず行われます。
逆に言えば、異質性を発信元があらわしたとしても、
それが発信先においてはあらわれないのです。
また、「マイミク」に登録されている人なら
どんな人でもその「日記」はRSS表示される。
つまり、ここに階層性もないことが言えるのです。


ここで疑問に思う人がいると思います。
「日記」で異質性や階層性をあらわしたいなら、
「メッセージ」機能を使えばいいじゃないか、と。
つまり、「日記」で言えないことは
「メッセージ」をやりとりしたり、
閉鎖的な「コミュニティ」で書けばいいじゃないか、と。
それは確かです。
しかし、それは「マイミク」に登録されてない相手でも
そのメッセージは届きます。
つまり、文脈が違うわけです。
この辺の議論はまた後日。


さて、この「電話帳」と「マイミク」について、
ギデンズの再帰性と純粋な関係性という言葉で
考えることができると思います。
再帰性とは、ここでは、「私」と
友達のデータベースである「電話帳」や「マイミク」の
相互的関係であると言うことができると思います。
純粋な関係性とは、
そういった相互関係性そのものへ依存されていることだ、
と考えることができます。

違う例を挙げれば、この純粋な関係性の発端として、
大澤真幸によるロマンティックラブの例があるでしょう。
ロマンティックラブとは、
まず、内面的主観性の表現としての相互関係であり、
そして、外面的なものとして永続的関係であり
最終的には結婚に行き着くものであると考えられている、
といったものであることがわかります。
すなわち、これがきっかけで、
相互関係性そのものに重要性が求められるようになった、
ということができるでしょう。

つまり、「電話帳」や「マイミク」においては、
そこに登録されている「友達」関係を維持することからこそ
充足感を得る、ということです。
こうした関係は、
言い換えれば、「つながりうる関係」といえると思います。
「電話帳」や「マイミク」に登録されているからこそ、
お互いの現在の素性を知ることができる、
ということです。


では、この「つながりうる関係」において、
「電話帳」と「マイミク」の違いは何なのでしょうか。
私はここに関心を持ちます。

すなわち、「電話帳」ならば
友達関係の階層性も異質性も残っており、
すなわち、こちらから主体的に
「つながりうる」関係としての行動を起こせるわけです。
何か用事があれば、そのデータベースを元に、
その用事で関係する「友達」を探し出し、
メールなり電話すればいい。

一方で、「マイミク」は、というと、
「日記」のRSS表示は常に更新され、
お互いの現状は常に確認しあえる。
すなわち、「つながりうる関係」そのものを
確認しあうことが主な目的である、
と言うことができると思います。

つまり、同じ「つながりうる関係」であっても、
「電話帳」が「コネ」や「ツテ」など
社会的関係の結晶に過ぎないのに対し、
「マイミク」は
「現れる欲望」から生まれる「日記」が元となった
「つながりうる関係」の可視状態である、
ということができるのではないでしょうか。


しかし、純粋な関係性の発端である、
ロマンティックラブは最も豊かなコミュニケーション、
といわれています。
それは、永続的に関係を維持するものであるとはいえ、
内面的な主観性が表現されるものであるからです。

「電話帳」にしても、
友達関係の異質性や階層性が残っており、
そして、どんな内容であれ、用事があればこそ、
メールや電話というものはなされる。

それに比べて、「マイミク」の友達関係は、
「つながりうる関係」の可視化、維持以外に、
どんな目的があるといえるのでしょうか?


結局、この「マイミク」の帰結点はどこか。
それは、mixiを本来のSNSのあり方から
遠ざけることにあると思います。

SNSというものは、もともと
社会的関係をオンラインデータベースにするサービスです。
そして、「コネ」や「ツテ」を形成するものです。
これは、ビジネス利用も視野に入れられている。
つまり、「電話帳」と似ているわけです。

「電話帳」でできないがSNSではできることとは、
「電話帳」が自分の既存の社会的関係の中でしか
メールや電話、すなわち社会的行為ができないのに対し、
SNSが広いデータベースで
広く自分と知り合えない人と出会える、
ということなのだと思います。

ここで重要なのは、社会的行為を起こすことです。
もともとのSNSの人間関係も「電話帳」の人間関係も、
この社会的行為を起こすことこそに
主な目的、意味があるといえるのです。

一方で、「マイミク」というものには、
もはやそれがない、とすら言うことができると思います。
RSS表示された友達の「日記」を読んで、
「意味」もなく感動をし、「意味」もなくコメントをする。
そして、それを常に、毎日繰り返していく。
実は、「マイミク」の友達関係とは、
私たちにこうした非人間的な、
そして無意味な行動を繰り返させるものではないでしょうか?
しかも、もともとのSNSのように
社会的行為を起こすことが、主な目的、意味ではない。

しかし、「マイミク」において
そのように「意味」なくいろんな「友達」の日記に感動し、
「意味」なく「友達」にコメントする、
こんな無意味な行動が「マイミク」で繰り返されるからこそ、
mixiというものが受けるのだ、と言うこともできます。
私たちは、家に帰れば、mixiを開く、
学校にいるときも、仕事中も、携帯からmixiを確認する。
「マイミク」に「意味」がないからこそ、
ここまで私たちをmixiに執着させるのではないか、
と言うことができるんだ、と思うのです。