1/24の使い方の自由について

今回は少し気楽に。


大学というところには長期休みが2回ありますが、
そのそれぞれがだいたい2ヶ月間ずつあります。
長期休みをどう過ごすか、
そんなことを考えるなんて、
どの大学生でも経験あることに違いません。
いつかは夏休みは気ままに海辺で本でも読んで過ごしたい、
そんな風に考えつつ、
みんなできないのが、長期休みかもしれません。


大学の長期休みとは、
それまでの初等中等教育で長くて1ヶ月少しなのに
なぜこんな長いのか。
以前、うちの学部の某先生が言っていたことですが
「長期休みは計画的な探求のためにある」らしい。
いや、本当かどうか知りませんが。

とはいえ、その計画的探求をする以前に計画をすることも
重要なはず。
つまり、それは「計画のための計画」です。
その「計画のための計画」をするには
興味関心などの何らかの意思が必要です。

さて、ここで問題なのは、
「その興味関心がなければどうなのか」ということです。
大学に入りたての1回生、
言い換えれば「高校4年生」にとってみて、
この「興味・関心を自由に持て」という言葉ほど
重いものはないのです。
結果として、けっこう僕の周りの話に過ぎませんが
「1回生の夏休みはゲームばかりして過ごした」
なんて語る人も少なくはないのです。


長期休みとはこのように
どう過ごすかの計画を立てるには難しいくらい長いものです。
僕は1回生のときは
「長期休みは学生を孤独に敢えて追い込むものだ」と
結論付けましたが、
まぁそれも一理ないことはないでしょう。

ただ、今思えば、この「孤独」と言う言葉は
少し語弊があるかもしれません。
当時こう僕が名づけたのは
この休みのあまりの長さに耐えられなかったからではないか、
と思います。
今回、その感情的な意味を排除して改めて定義すれば、
「日常から離れるよう追い込むものである」
というところでしょうか。
それは孤独であろうと集団内であろうと別にかまわない。
それまでの通常の学期とは違い机に向かう勉強を強制されず、
もちろん自分で机に向かうもよし、
海外に行っていろんな国を回るもよし、
バイトをしていろんなことのために金をためるもよし、
などなど、こんなことを自分なりに計画立て、
経験していくことが求められているのではないか、
と今となっては考えます。


ところで、この2ヶ月の長期休みは
大学4年間(ここは全員4年と仮定しましょう)の中で
どれだけのウェイトを占めるか、考えたことあるでしょうか。
4年は48ヶ月ですね。
すなわち、2ヶ月はこの4年間の1/24を占めるのです。
ここで、4年間を「1日」に置き換えるとすれば、
長期休みは大学生活「1日」のうち1時間も
占めることになるのです。
そう考えれば、大学生活の中でこの長期休みが
いかに重要な性質を持つか、わかります。

先ほど、2ヶ月ずっとゲームをした人の例を出しましたが
まぁそういう人は別としておいて、
大概の人は、「よし夏はバイトをして金貯めるぞー」みたいに
壮大な計画をたてることと思います。
それは、長期休みのこの重要性をわかっているからこそ、
なのだと思います。


しかし、いざ休みに入ってみると、
満足いくように休みを過ごしていくことができない。
何か物足りなさを感じる。
もっと、もっと、いろんなことをしてみたい、と。
意義深い生活をしたからこそ、
そう思うのかもしれません。

結果、毎回毎回意義深い経験をしているのに、
毎回毎回、物足りなさを感じるわけです。

僕が今「怖いな」と思うのはこのことです。
一番最初に述べたとおり、
長期休みには「何もやることがないかもしれない」
そんな自由が存在します。
やろうと思えばいろんなことができるのに、
結局そうしたことに足を踏み出さずに
いつの間にかゲームに逃避して終わる、
そんな「長期休みにできる活動の幅広い選択肢からの自由」
があることは、よく啓蒙されることです。
逆に、いろいろやりすぎて、物足りなくなる、
物足りないからこそ何らかの不安感を感じる、
すなわち、
「長期休みにできる活動の幅広い選択肢への自由」
があることも忘れてはならないのではないでしょうか。

というのも、僕はこれまでの4回の長期休みを、
インターン、バイト、ボランティアと、
けっこう有意義に使ってきた自信はあります。
それでも僕は物足りなかったわけですよね。
そして、海外に何かを探しに行こうとした。
しかし、今考えてみれば、
免許も取っていないし、
海外に行くのだって、一回きりの単なる旅行じゃ
何も経験はできない。
・・・なんてことを考えたら、
1/24*8だって、いつの間にか使い切ってしまうのです。


好奇心が旺盛な人、フットワークの軽い人は
それぞれもともといるんだと思います。
そういう人は誰にも言われなくても
何らかの活動は起こしていることでしょう。
だからこそいえることは、
そこまで好奇心も旺盛でない人や
フットワークも軽くない人に対して、
確かに「2ヶ月は長いからもったいない過ごし方するなよ」
と啓蒙することも、確かに重要だとは思うのです。
と、同時に、啓蒙が行き過ぎて、
半強迫になってしまったとき、
結局、その人の経験というものが、
後になって、自分なりの感動的経験につながらず
ただ単なる平凡な経験になってしまわないでしょうか。

だとするならば、もともと
長期休みが「日常とは違う経験をする」目的があるとして、
その目的から外れ、
いつもの平凡な日常と変わらない日常へと
なってしまわないでしょうか。
そうだとすれば、非常にもったいないことだと思います。


長期休みの使い方に2つの自由があるとするならば、
どうその自由と向き合えばいいのでしょうか。
長期休みでこそ、もともと違った経験をすることができるなら、
気楽に、「ちょっと違った経験でもしてみようか」と
思ってみることから始めてみるのがいいのかもしれません。
ちょっと違った本を読む、
ちょっと違ったところへ行く、
ちょっと違ったやつと付き合ってみる、など。
むしろ、そのほうが満足した、と思えるのかもしれません。
まぁ、それがわかっていて、ではいざ実践できるか、というと
また難しい問題ですが・・・

しかし、実践するかともかく、
そんな長期休みの過ごし方をいつかしてみたいな、
とやはり思うのが長期休みの性質なのでしょうか。