薬物汚染の背後にある話

昨日、京都に「夜回り先生水谷修先生の講演があって
聴きに行ってきました。
実は、水谷先生の講演を聴くのは初めてではなくて、
一昨年、立命館の衣笠にやってきた時に行っています。
(昨年、同志社にも来られましたが、その時は用事があって行けず… 
でも、握手してもらいました。)

同時に、昨日、元サザンの「ター坊」、大森隆志
薬物所持で逮捕された、というニュースが流れました。
私はもう10年来もサザンを聞き続けていて、
もちろん、当初はター坊もいたわけですから、
ドリカム西川などの時のように聞き流せるほど、
このニュースは僕の中では軽くありません。

ということで、少しネタバレになってしまいますが、
この2つについて関連させて少し考えてみたいと思います。


さて、先生が最近特に取り組んでいることは、
薬物との戦いです。
(以前、朝生に出演したときも、
しきりに薬物について訴えていました。)

先生と言えば、夜回りに限らず、
夜も眠らず、無数に送られてくる相談に
メールや電話で対応している、ということで有名ですが、
そこでいつも「いいんだよ」と声をかけることは、有名ですね。
そうやって怒らないのは、彼の信条に基づくもの。
すなわちそれは、「子どもは花の種である。」
一生懸命育てれば、いつかは必ず「花」になる。
子どもはそういう存在である、という考えです。
どんなに悪いことをしても、
遠くからあたたかい目で見守れば、
子どもはいつか立派に成長する、
もちろん、これは教育学的に理想の教師像と言えます。

しかし、薬物だけはやり直しが効かないわけです。
先生もシンナーのヤスフミの例などを挙げますが、
依存症である薬物は、教育愛の力ではどうにでもなりません。
この10年間、子どもの間に薬物が回り始めて、
薬物が依存症だけでなく「感染症」になる中で、
なぜ薬物がこんなに簡単に流れるのか、
なぜ薬物にこんなに簡単に子どもが汚染されるのか、
考えなければならないのは、言うまでもありません。


その背景について、
先生は「疲れた大人社会である」と言います。
家に帰れば、夫に八つ当たりされた妻は、
母として子どもに八つ当たりし、
学校では職員室呼び出しで威圧する。
結局、子どもは居場所がない、というわけです。
一応、先生の言葉を使わないで説明すれば、
「学校化社会」の「被害者」が子どもである、
というわけです。

さて、居場所をなくした子どもが行く場所は、
先生は大きく4つある、と言います。
まずは、仲間内のいじめ。
それができない子どもは、
夜の世界に沈んでいったり、
不登校になったり、
無理やり学校に行く中で焦燥感を感じインターネットをする。
またここで先生の言葉を使わないとすれば、
宮台真司のいう「第四空間」、
すなわち学校でも家庭でも地域でもない場所がこれらである、
と言えるでしょう。

しかし、後者3者が行き着く結果は、いいことがありません。
夜の世界では暴力団が影を潜め、
不登校になれば引きこもりになり、
インターネットに逃げれば、言葉遊びに負け
最後に自分が生きていることを確認するためリストカットをする。


結局、その中で私たちができることは、
そうした背景を考え、
自分たちが相手を言葉で責めることなく、
相対することができるよう、努力するしかない、
ということになります。
Ritsのときは、
「私は夜の世界の人間。だから君たちはまねはしなくていい。
しかし、昼の世界でできることをしてほしい。」
そんなことを言っていた覚えがあります。
また、今回は、
「街に声が交わされるようになれば薬物はなくなる、
だから、挨拶をしよう。」
と言っていたわけです。


さて、もちろん講演では、こうした薬物の話だけでなく、
自分が夜間高校に赴任したわけ、リストカットの話など
他の話もしています。
しかし、最後に必ず取り上げるエイズのアイの話をすると、
急に会場の空気が重苦しくなるわけです。
そして、講演が終われば、
「先生の話よかった、感動した」などと
みんな言うわけです。
(もちろん、私も感動しました。
そうでなければ2回も聞きに行きません。)

今回問題視したいことは、実はそこです。
今回の講演では、京都市内の全教頭が聞いていたらしいですが、
では、先生の話に感動したからといって
そこで得た教訓を現場ですぐ生かせるか、と言うと
それは非常に難しいのではないか、ということです。


薬物依存というのは、アディクションの一種である、
と考えることができます。
アディクションといえば、
酒やタバコ、軽ければワーカーホリックも同じです。
つまり、実はこの嗜癖行動は
ごく一部の薬物依存者でなくてもやっていることなのです。
言い換えれば、状況が悪くなれば、
私たちもいつ薬物依存に陥るかわからない、と言うことです。

ギデンズは、アディクション増加の背後には
再帰性の形成が重要視されてきたことがある、と言います。
すなわち、自己を規定してくれる確たるものがなくなった結果、
自己自身が自己を規定していかなくてはならなくなった。
アディクション再帰性形成は裏表である、ということです。

子どもたちが「第四空間」に居場所を見出さなければならないのは、
つまりこの自己を規定する誰かがいないからだ、
ということができます。
すなわち、それは、
先生の言うように「疲れた大人社会」の被害者が子どもである、
その構図を根本的に変えなければ薬物依存はなくならない、
ということなのです。

こうした複雑な問題を変えるには、
もちろん、挨拶が効果的かもしれません。
しかし、先生の言う挨拶の重要性とは、こうして、
単に、挨拶を徹底すればいい、
あるいは、そこらかしこで先生が率先して挨拶すればいい、
などと簡単な話ではないのです。


さて、その薬物根絶の難しさ、複雑さを象徴するのが、
ター坊の逮捕を受けたファンの反応です。

ター坊逮捕を受け、サザン桑田はラジオの中で
やり場のない思いを元に、やけくそになって
放送をしている感を受けました。
そして、その放送に対してファンは、
このmixiのサザンコミュニティに、早速反響を書き込みました。
その多くが、更正期待論、
すなわち、「大森よ、お前は何をやらかしてくれたんだ。」
という意見が大勢を占めたわけです。

しかし、ここで冷静に考え直して欲しいのは、
ター坊はなぜ薬物を所持し、依存したのか、ということです。
これに関しては夕刊フジが今日付けで
「“元サザン”肩書重く、マスオさん状態…妻も薬物」
http://www.zakzak.co.jp/gei/2006_05/g2006051301.html
と報じていて、
「元サザン」の肩書きの重さと
それによる心理的不安定さを要因として推測しています。
よく思い返してみれば、
元ドリカム西川や、槇原敬之いしだ壱成など
芸能界の薬物依存の話は絶えません。
それだけ、芸能界にいることの心理的負担は重い、
ということは、容易に想像できます。


それなのに、ファンはなぜター坊をいとも簡単に責めるのか?


夜回り先生」の講演を聞いて感動したけど、
薬物依存者が身の回りに現れたら、その人を責める。
その私たちの考えにある矛盾さが理解できません。
結局、その要因にあるのは、薬物依存が他人事である、と
私たちが心の中で思っているからなのではないでしょうか?
しかし、薬物依存は、あるいは薬物依存の土壌は、
確実に私たちの世界の中に入り込んでいて、
私たちの多くが薬物依存に陥る恐れがあるのです。

薬物根絶を訴えるには、
それだけの問題の複雑さがあるということを考えなければなりません。
私たちがこの問題について考えるとき、
そして「夜回り先生」の言うことを本当に理解したいとき、
薬物汚染の背後にある問題が、
私たち自身の問題である、と自覚することからし
はじめることができません。
同じ日の水谷先生の講演とター坊の逮捕のニュースが示すことは、
こうした課題が私たちに突きつけられている、
ということであったと言えるでしょう。