「終わりなき日常」で生きられるか

「終わりなき日常」とは、宮台真司の言葉です。
ちょうどオウム事件が騒がれていたとき出版された、
宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』という本に出てきます。

ちなみに、よく宮台の言説に対して「感動した」などの声を聞きますが、
宮台の理論的根拠である社会学をすこしでも勉強すれば、
そうは思わないのではないでしょうか。
なお、以下述べることは、ほぼこの著書の書評に過ぎません。
しかしそれをあえてここでするのは、
今まで述べてきたことのいくつかをまとめることができるからです。
つまり、目的はあくまでそのまとめに過ぎません。


さて、宮台がこの著書でいうのは、
今日、私たちの「さまよえる良心」が揺らいでいること、
また、「非日常的外部」の存在がありえなくなり、
「終わりなき日常」に適応しなければならなくなったこと、
という大きな二点です。

まず、私たちの「良心がさまよう」とはどういうことか。
これまで私はユニバーシティー・ブルー(溝上)など
何が良いことなのかわからない、それが今日的課題である、
という問題提起をひとつにしてきました。
私たちの中には、
「良いことをしたい」という願望があると思います。
(ない人もいるかもしれませんが。)
しかし、じゃぁその「良いこと」って何だろう、と、
ここで悩むわけです。

例えば、お節介な気持ちで
誰かの人生相談に乗ってあげたとします。
人生相談とは、相手が真剣に悩み、
そしてその解決の糸口を求めてくるものですが、
もちろん、その答えを自分なりに出してあげたとして、
その答えが相手にとって、
本当に役に立つかどうか、わかりません。
むしろ、相談に乗ってあげたのにもかかわらず、
迷惑がられることだってありうるのです。

この社会は複雑です。
この複雑化した社会の中で、
「良いこと」、すなわち倫理など存在しえなくなります。
ましてや、この消費社会化した中で、
家族や学校などといった概念に対する信頼が
ますます損なわれていく。
そんななかで、しかし、
私たちは、依然として「良いこと」の真理を追及したくなる。
その結果行き着くところは、
崇高なる幻想的共同体、ということです。
宮台は、ここで麻原やジブリ作品などを例に出します。
(その辺の話はここでは省略しますが。)


さて、「オウムって怖いよねぇー」とか、
よく皆さん言いますが、
オウムのこの今述べた現実は、
私たちの現実にだって起きえます。
宮台は著書の中で震災ボランティアを例に挙げますが、
それはなんでもいいと思います。
私たちの日常の中には、
これまで「当たり前」と信じられてきたことがあります。
例えば、「家族」だとか、「学校」だとか。
しかし、いまやそういった概念は「虚構」であった、
というスキャンダラスな事実が明るみになってきました。
学校においては、教師のバーンアウトや学級崩壊、
家族においては、子育て不安や離婚増加などなど。
これはリオタールにいわせれば「大きな物語の崩壊」であり、
言い換えれば「虚構の崩壊」でもあります。
その中にあって、その現実にうすうす気づいた人が、
例えば、総合的学習やら、子育て支援やら、
さまざまな方法でこの問題に対処しようとするわけです。
宮台に言わせればこれは「核戦争後の共同性」の現実化です。
麻原がそれをハルマゲドンといったように、
「救済は可能である。」と。

でも、結局そのハッピーエンドはやってこない。
いくらオウムが実験を繰り返しても、
学校で総合学習を取り組んでも、
子育て支援で親の負担を軽減しようにも、
夢はまた夢。
例えば、オウムを例に取ったとき、
オウム、すなわち麻原が夢見た世界というのは、
果たして実現可能か、というと、
「(いわゆる)正常」な私たちにとって議論するまでもなく、
答えは「ノー」ですが、
当時オウム教団内にいた信者は、
それが、あたかも実現可能かのように信じ込んでいたのです。
(もちろん、麻原含め。)
それは、宗教だとか、洗脳だとか、そういう次元を別として、
これは、「虚構」が「虚構」でない状態、
すなわち、「非日常的外部」が存在していた状態である、
ということができると思います。
しかし、やがてオウムの「虚構」が崩壊するときがやってくる。
「虚構」は「虚構」に過ぎないのです。

この社会は、すなわち、
「神」も存在しないし、「共同体」も存在しない、
だから、答えを探そうにも、
確かなものを探そうにも、終わりがない、
「終わりなき日常」であるわけです。
かつて、学生運動が学生の象徴であった時代でも、
ジャズやダンスが流行であった時代でも、今はない。
今の学生を象徴するサブカルなどありえないし、
だからこそ、ユニバーシティー・ブルーに学生は陥る。
もちろん、これは学生文化だけの問題ではない。
しかし、そんな時代に生きる知恵こそ、
実は必要である、といえるわけです。


そこで結局求められることとして宮台が結論付けるのは、
「コミュニケーション・スキル」です。
これまでのサブカルの根幹たる、
「家族幻想」や「恋愛幻想」が崩壊したとき、
「幻想」に基礎付けられた「現実」などありえないし、
また「現実」からそうした「幻想」も生まれません。
結局残るのは、「戯れ」という適応ができるかできないか、
それができるコミュニケーション・スキルがあるかないか、
そうしたことが「終わりなき日常」で私たちが生きる上で求められ、
そして、その適応力のない人たちは
居場所を失っていくわけです。

では、このコミュニケーション・スキルを身につけさせればいいか、
あるいはそれを身につけられるよう努力すればいいか、
というと、それは違うのではないか、と私は思うわけです。
例えば、「家族幻想」の中で生きてきた
アダルト=チルドレン(AC)はどうしたらいいか、という問題もあります。
ACの問題の根本にあるインナー・ペアレンツを抱えたままでは、
宮台の言うような、
「そこそこ腐らず、まったりと」
「真っ白じゃなくて薄ぼけていていいから」生きていく、
というライフスタイルを実現可能とするのでしょうか。
実は、コミュニケーション・スキル以前に、
何か必要なものがあるはずではないか、と私は思うわけです。
また、そもそもそれではコミュニケーション・スキルって
何だろう、という話になります。
この文脈の中でそれが「戯れ」のために必要なものと考えると、
つまりこれは、では「戯れ」るためには何が必要か、という問題です。

例えば、
「ガキのころからバイトしたりオヤジとつきあったり」する人が、
果たして必ずしもコミュニケーション・スキルが高い、
とは言えません。
バイトの店長やオヤジが、
その子に対して何らかの否定的印象を持てば、
この両者間の信頼関係など成り立たないし、
また、そういう事態が日常的に起きれば、
その人は「戯れ」る巧さを身につけることができないでしょう。

結局のところ、信頼関係が築けるかどうか、
ということが、何よりまず問題になるのだと思います。
そして、その信頼関係というものは
本来的に誰にでも成り立ちうるはずです。
誰でも出会ったときはお互いのことは知らないし、
そこからならば、誰かしらと信頼関係は成り立ちうる。
そこで、人は信じられるんだ、という気持ちを持てればいいわけです。
その上で、「そこそこ腐らず、まったりと」
「真っ白じゃなくて薄ぼけていていいから」生きていけばいいじゃないか、
そう思えたとき初めて、
この「終わりなき日常」を生き抜けられるようになるのではないでしょうか。