「バレンタインデー化社会」への危惧

バレインタインデーが明日らしいですけど、
私は別にどうでもいいです、知りません。しらけています。

それより、バレインタインデーの意義って何でしょうか。
そもそも、キリスト教文化下のどこかでは、
性別問わず、互いにチョコレートをあげる行事だったはずで、
(ネットで探してもこの証拠が出てこないのですが。)
日本で一般にイメージされる「女→男」の
恋愛図式としてのバレンタインデーは、
元来、企業によって作り出された広告戦略だった、
というように記憶しています。

それにもかかわらず、人々はなぜ
バレンタインデーを迎えるにあたってウキウキドキドキなのか。
この時期になると、決まって世間の意見は二分されます。
すなわち、
一方は、チョコレートをあげる、あるいはもらうことについて
幻想を抱く集団、
もう一方は、バレインタインデーにしらける集団、
という二者です。
前者の特徴は、よく表現すれば、夢がある、
悪く表現すれば、幻想深い、もっといえば妄想深いことです。
そして後者の特徴は、悪く表現すれば、夢がない、冷めてる、
よく表現すれば、現実的、ということでしょうか。
しかし、圧倒的に前者が大勢を占めるのです。
どうせバレインタインデーにチョコはもらえないから
関係なく平凡な一日を過ごそうとする後者と違い、
前者は、より理想的な恋人を獲得することを夢見て
自分の内面外面について磨きをかけようとするのです。


さて、ここで重要なのは、
前者が夢を抱くことが、裏を返せばそれは前者の妄想であり、
後者がしらけることが、裏を返せばそれは現実的、という
この表裏一体の関係がここに存在していることです。
これだけバレインタインデーという
企業によってつくり上げられたイベントに対し、
世の中が全体的に盛り上がると言うことは、
この時勢のパラダイムは前者に近いと言えるでしょう。
すなわち、夢のある社会です、ここで言えば恋愛に対して。
一方で、忘れてはならないことは、
そうやって夢を見ることは、
裏を返せば必ず幻想、妄想が存在していると言うことです。
抱く夢、あるいは幻想に対して
それを現実のものにできる人もいれば、
現実にできない人もいる格差がここに生まれるのです。
すなわち、「もてる」勝ち組「もてない」負け組の二分化、
バレンタインデーでいえばチョコをもらえるかどうかの二分法です。


ただ、本当に私たちはこの二者の中に
当てはめられなければならないのでしょうか。
先ほどバレンタインデーについてしらけるのも手だと話しました。
バレンタインデーというのは、
考えてみれば本来は平凡な一日のはずです。
そうやって平凡に一日過ごしていくのも手かもしれません。

「もてる」人の中には、
バレンタインデーについて、
「俺、チョコこんなにもらってもしゃぁないって」と言ったりなど
恋愛に対してしらけている人が多いかもしれませんし、
また、「しらける」ことも現実的に可能です。

しかし、「もてない」人にとっての伴侶を得られるかどうか、
これは深刻な問題です。
彼らにとって、「もてな」ければ恋人は得られないからです。
これでは、恋愛感情と言う夢はおろか、
人間の本能的な数々の欲望すら満たせなくなるのです。

とはいえ、恋愛は結局は幻想です。
簡単な話をすれば、
どんな「もてない」人が「もてる」人に恋愛感情を抱いても、
大方の確率でその恋愛感情は満たされないのです。
そんな中で、果たしてこの「もてない」人に生きる術はないかというと
そんなことはないのではないのでしょうか。
それは、オタクについて考えることで見えてくると思います。
社会学や哲学の間では、現代は、
「虚構の果てである。」(大澤真幸)とか、あるいは
「『終わりなき日常』である。」(宮台真司)といわれ、
またそれは「動物化(オタク化)を引き起こした」(東浩紀
と言われています。
ここでのオタクとは、現代特有の現象としてのオタクについてです。
そして、これを考えることで、
「もてない」とレッテルを貼られた人間でも
恋愛に対して「しらけて」生きていくことができるような
可能性を探ることができ、
さらに、その上で何が支障なのかを考えるきっかけになりえるでしょう。


オタクの人、あるいはオタク的なるものの特徴は何でしょうか。
オタクという言葉はそもそも、
例えば、漫画やらアイドルやら鉄道やらに没頭する人たちが
お互いのことを「お宅は〜」と言い合うことから
そうでない人が、そのコミュニケーションのあり方について
奇怪である、と見なしたことで生まれたものです。
ちょうどそれは80年代のことです。
バブルを背景に、郊外化はピークでした。
しかし、一方で生まれたものはオタク的なるもの、
すなわち、それまでの国民的、家庭的なるものとは一線を画し
みんながわからないけど、わかる者同士は通じ合う話題で、
これはまさに「島宇宙化」(宮台)です。

ここで女性アイドルを例に取れば、
国民的な美空ひばりから、家庭的な山口百恵になり、
そしてオタク的な、おにゃん子クラブ、モーニング娘。、と
時代は推移してきたわけです。
しかし、このモー娘。はモーオタと言われるように
当初はモーニング娘。ファンはキモイ存在でした。
少なくとも、2001年頃の辻・加護の加入までは。

ただ、今のモーオタの評価はどうなんでしょうかね。
実際に身近に最近はそういう人がいないのでよくわかりませんが
少なくとも、キモイとは言われなくなったんじゃないでしょうか。
社会的転機は、「電車男」ブームかもしれません。
電車男」によって、オタクはそれまでのようなキモイ存在から
より一般的な存在に変化したように思います。
すなわち、それまでオタクなのにオタクと自称しなかった人が
この「電車男」ブームを機に、
次々と「自分はオタクである。」とカミングアウトし始めたのです。
オタク的な人に対して、キモイ存在としてのオタクから、
ここに見事に一般的存在としてのAボーイへと
社会的な扱いが変わったのです。

モー娘。についての社会的注目も、
結局辻・加護以来、急に冷めました。
それは社会の見るアイドルの視線が
「キモオタ」的なものから一般的オタク的なものへ変化したからです。
そしてそこでアイドルとして注目を集めるようになったのは、
商業化アイドル・グラビアアイドルです。
もはや、「島宇宙化」したことで、人々の注目は分散され、
どのアイドルがトップとはいえなくなった時代に突入したのです。

さらに、この「電車男」ブームの意味は
もっと奥深いものがあるように思います。
それはオタク的な人自身の自己の扱い方の問題です。
この「電車男」ブームはオタク的な人に希望を与えました。
オタクでも社会に認知されるんだ、と。
これからオタクであることを隠し、
あるいは劣等感を覚えなくても生きていけるんだ、と。
女にもてなくても、いい会社に就職できなくても、
別にいいじゃないか、
自分の趣味に没頭して生きていけば、というように。

ただ、皆さん「電車男」のエピソードを思い出してください。
ここで落とし穴があるのです。
電車男」での電車男は「エルメス」を救ったことが
オタクの英雄化につながっているように思います。
すなわち、それはオタクでも女を得られる、
あるいは、希望があるんだ、というような映され方を、
マスメディアを通じてされました。
しかし、実際の元ネタである2ちゃんねるでは、
この電車男は、セックス寸前のところまでいったところで
「独身板」から排除されているのです。

ここが夢見る郊外的なる象徴・マスメディアらしいところです。
2ちゃんねるを通じて「電車男」を知った人と
マスメディアを通じて「電車男」を知った人とでは
電車男」の映り方が違うのです。
2ちゃんねるでは、独身として夢のあることをしつつも
結局最後はその「独身板」に所属することで
その夢を得ることは認められなかった。
すなわち、「独身板」はあくまで独身的であるべきである、
という彼らなりの倫理が貫き通された。
しかし、マスメディアを通じた「電車男」では
夢を獲得できた、ハッピーだね、でエンディングなのです。
ここでの前者は現実的な下町的地域社会的に極めて近いでしょう。
社会のオタク化はこのように夢が虚構であると気づいた
オタク的なる人によって起こりました。
しかし、結局そういう社会的なパラダイムの移行に対し、
結局、ここでの後者のような、
郊外的なユートピアニストによってそれに対して
抵抗が起きているのです。
それは、ユートピアニストによるスティグマ
すなわち、自分にはられたキモイ存在としての「オタク」というレッテル、
すなわち、旧来のオタクの在り方、パラダイムから脱却できず、
またそれを一種の恨みとして生きていこうとすること、
に過ぎないのではないでしょうか。
このマスメディア的な「電車男」の捉え方は、
まさにその典型ではないでしょうか。


さて、それではバレンタインデーの話に戻します。
ここで私が面白いなと思うのは、
バレンタインデーを中止せよ、と叫ぶ人の存在です。
より理想的な恋人を獲得することを夢見て
自分の内面外面について磨きをかけようとする人、
あるいは、どうせバレインタインデーにチョコはもらえないから
関係なく平凡な一日を過ごそうとする人という二者のうち、
彼らはどちらに位置するのでしょうか。

私は、これはマスメディア的「電車男」の捉え方と同じで、
結局それは「もてない」自分と言うスティグマ
過ぎないのだと思います。
すなわち、「もてない」とはられたレッテルから脱却できず
それを恨みとしてバレインタインデー中止を呼びかけているのです。

それは、結局のところ、恋愛への幻想です、妄想です。
バレンタインデーを中止せよ、といいつつ、
結局のところ、恋愛に対して夢を抱いている。
しかし、本気でバレンタインデーを中止したいのなら、
結局、恋愛と言う夢、幻想をあきらめなければならないのです。
「もてない」人間がこの恋愛格差の中で将来に希望を持つには
それしかない。
それなのに、理想的な相手を探さず、
自分と同じくらい「もてない」相手を探そうとしない。

結局、こういったバレンタインデーという社会的イベントによって
恋愛という夢を実現できる人の一方で、
恋愛という幻想を実現できない人を多く生んでいるのが
この「バレンタインデー化社会」なんだと思います。
結婚や同棲のもつ性質として挙げられるものとして
経済的側面が大きくあると思います。
結婚や同棲は、経済的負担を軽減させますが、
(家財道具や食費、そして何より不動産代が1人分浮く。)
バレンタインデー化による社会的制約によって、
結婚・同棲できる人は経済的な負担は軽減され、
それができない人は経済的に大きな負担を強いられるのです。
そうした経済的格差まで引き起こし、
未婚化、離婚増加による少子化の一因にもおまけになるのです。

バレンタインデー化社会は、
このように結局、自分自身にとっても、社会にとっても
いいことはないのです。
しかし、それを止める術は1つだけあるのです。
それは「もてない」人間が恋愛の幻想を捨てることです。
しかし、それはバレンタインデー廃止論者によって
社会的にあまり起こらないのです。
つまり、こうしたバレンタインデー化の最大の責任は、
バレンタインデー廃止論者のもつ幻想性にあるのです。

バレンタインデーも企業によって作られた広告戦略です。
すなわち、バレンタインデーと言う行事によって作り出される恋愛は、
そもそも虚構なのです。
そういう虚構を虚構として暴き、
自分自身のためにも、社会のためにも、
社会的パラダイムを変革させるためには、
まさにこのバレンタインデー廃止論者が
恋愛のもつ幻想性を捨てられるかどうかにかかっていると言えるでしょう。