他者という、なくなって初めてその価値に気づく存在

ホリエモンが逮捕されてからしばらく経ちました。
朝や夕方のワイドショーを見ていると
未だにホリエモンのことをやっていて、
この事件の衝撃と言うものがいかに大きかったかを
垣間見ることができると思います。

堀江については、
逮捕前は、ヒルズ族の成功者として崇められ、
逮捕後は、凋落者として罵られ、
といったように逮捕前、逮捕後と巷での評価は大きく違いますが、
私の彼に対する評価は一貫していています。
彼のインターネットの可能性についての考えについては
評価をすべきだと思いますが
(この点については後日述べることとしましょう。)、
ライブドアのビジネスの方向性や
(これは宮内にだいぶ影響されていたようで。)
彼の人間性には私は激しく批判をしていました。
ビジネスの方向性については置いておくとして、
ここで彼の人間性についてですが、
テレビや新聞などのコメンテーターたちは
逮捕後になって
「社会的な人間性に欠けていた」などといった
細木数子が以前言っていたようなことを急に言い出したものです。
ただ、それではこの「社会的な人間性」とは
どうやって形成されるものなのだというのでしょうか?

堀江の場合、東大に入り、
ライブドアで前身企業時代から成功を続け、
どうも成功というものがつき物である人生を
送ってきたように思います。
しかし、「失敗は成功のもと」というように
人生は成功ばかりでなく失敗も経験するものである、
とよくいわれるのです。

バファローズ事件にしろ、ニッポン放送事件にしろ、
あるいは今回の事件にしろ、
失敗はありえないとする彼の行為が
社会的に大きな過ちとみなされてしまうのは
今まで彼が失敗と言うものをあまり経験しなかったため、
とも考えることができるかもしれません。
「手に入れようと思えば何でも手に入れられる」とする
彼にとっては、
それらのもつ「価値観」という概念が存在しなかったかもしれない。
彼が「なくなる」ということを知らず
「手に入れる」ということしか知らなかったがために、
やがて、大きな過ちを犯してしまうことになった、
つまり、彼の存在、あるいは彼の行ってきた行為の価値は
彼が犯罪者と言うレッテルを貼られ、
そして社会から「いなくなって」初めて、
彼自身(=自己)の中でも、
あるいは取り巻き(=他者)の中でも、
問い直される機会が訪れた、ということができるのかもしれません。


人には「なくなって初めてその価値に気づくもの」というものがあります。
最もわかりやすい例が人。
以前、交通事故にあって命を落とした知り合いの話をしましたが、
このように、家族、友達、恋人など、
今まで当たり前に接してきた人というものは
普段、気づいていようがいまいが、
その人が自分のそばからいなくなって初めて、
その価値というものを気づくものです。
あるいは、物についてもいえます。
私にしてはよくあることなのですが、
電車の中などあらゆるところに傘を忘れる癖があります。
傘をなくしたことに気づき、
雨の中濡れながら行かなければならなくなって初めて、
傘のあるありがたさについて知るわけです。

また、このような「なくなって初めてその価値に気づくもの」は
何も人や物に限りません。
抽象的な、チャンスとか、環境などもいえます。
友達関係や師弟関係、労働環境など、
いつもいつもよい環境であり続けるわけではありません。
時には自分をよく尊重してくれる関係であるときもあり、
時には自分がけなされいじめられる関係であるときもあるわけです。
自己と他者との相互関係はこのように
他者からの自己の評価のバランスによって
成り立っていると言えるでしょう。

ここで、「存在証明」という概念があります。
私たちは「自分探し」などといいながら
常に自分の存在を証明しようとしています。
しかし、そういう「存在証明」、すなわちアリバイは、
他者によってつくり出されるものです。
いくら自分でアリバイを主張しても
他者からそれを認められなければそれは成立しないのです。
そして、このアリバイを求めることというものにはゴールがない。
自己のアリバイが他者から認められれば認められるほど
他者からの自己のアリバイを求め始めるのです。
もちろん、私もそれは例外ではありません。
人から褒められれば褒められるほど
もっと褒められたいと思わんばかりに
行動をするようになるわけです。


しかし、アリバイを求めることにはゴールがない、
とはいえ、限界は存在するのです。
このように他者に自己のアリバイを求めることは
時に強迫にもなりえ、
それが他者へのお説教を始めることにつながったり、
(↑これは私によくある悪い癖です。)
あるいはそういう行動をするというアリバイを求める手段が
目的化してしまうことも考えられる。
自己のアリバイを他者に求める行為のこの限界は
やがてその他者を失うことにつながり、
自己のアリバイすら失うことになる、
このように考えることもできるのではないでしょうか。
つまり、他者からの証明で成り立つこの自己のアリバイこそ、
私たちにとって、
「なくなって初めてその価値に気づくもの」ではないでしょうか。

このように、自己のアリバイというものは
他者次第でいつでも証明できなくなるものです。
自己のアリバイを証明し続けるために必要なことは、
・それを証明してくれるような他者の中に常に意識して自己を配置すること
・他者からの自己のアリバイを求めることにはかえって他者に悪影響を常に及ぼしかねないということを意識すること
このようなことがいえるのではないでしょうか。


さて、それでは私のアリバイはどうか。
私のアリバイを証明してくれるような他者との人間関係は
偶然にも、年間で平均して大きく2つの波があります。
ちょうど秋の終わりから春にかけてのこの時期は、
ちょうどそのような他者に恵まれる時期です。
また、一方で初夏から秋の初めにかけての時期は
そのような他者に比較的恵まれない時期といえます。
つまり、今の時期は一年間でもこの意味で非常に恵まれているのです。

しかしこのことは、逆に考えれば、
・そのような人間関係はいつまでも恵まれ続けないこと
・そのように人間関係に恵まれていることでかえって他者に迷惑をかけていること
ということがいえるのです。
前者についていえば、
人から褒められることが多いとはいえ有頂天になってはいけないこと、
また、そういう今だからこそ何事にも全力をつぎ込めるのであり
今だからこそ、疲れたなどと逃避せずに努力をしなければならないこと、
などということがいえるでしょう。
また後者についていえば、
mixiに日記を移転してから実存主義的な記述が目立っていること、
それは特にオンライン上に限る行為ではないわけで
今一度総合的に他者に対する行為を反省しなければならないこと、
ということがいえることでしょう。

ただし、根本的に考えれば、
自己のアリバイを常に安定的に証明し続けるには
この波があるような人間関係の不安定性に
問題があるといえるかもしれません。
今まで他者との関係にありがたみをあまり感じず
自己と他者との関係の中での自己のウエイトを
他者よりも上に置いていたことがその原因です。
人間関係をより安定的にするために、
他者との関係に恵まれている今だからこそ、
そのあり方について見直さなければならないといえるのです。
そしてそれが延いては自己の存在を証明する上でも
大きな意味を持つことになるといえるのです。
その上でも、他者との関係のありがたみを再認識し、
良好で安定的な人間関係をこれからも構築していくことこそ
安定的な自己形成に必要である、といえるでしょう。

ややまとまりきれていませんが、
(というか、読み直していて、もっと簡略化できたなと思いますが、)
なくなって初めてその価値に気づく、
自己のアリバイ、あるいは他者という存在と向き合う上で
私が気をつけたいことの結論は、
今のところは、このような感じにしておきたいと思います。