読書と「知的複眼思考法」

最近、自分でも信じられないほど、
読書をしているように思います。
今日はそんな読書にまつわる話から考えてみたことを
話してみようと思います。


昔の私は読書が嫌いでした。
いや、嫌いというと語弊があるかもしれません。

よく大人は「読書をしなさい」と言ったものです。
その理由は定かではありません。
その大人が青少年時代に読書をせず後悔しているからなのか、
それとも一般的に世間で、
「読書をしないと『頭がよく』ならない」
と言われているからそれをコピーライトしているからなのか。

ただ、私が読書をしなかった理由は、
どうもその大人の言い分は
その後者に思えて仕方なかったからです。
つまり、なぜ読書をしなければならないか理解できないから、
読書をしたくなかったのです。

しかし、私は大学生になると
次第に考えも変わってきました。
大学生になって一番最初に読んだ本はよく覚えています。
佐伯啓思(京大教授)の『「市民」とは誰か』(PHP新書)です。*1
本書は当時の私にとっては画期的で、新鮮なものでした。
当時の私の稚拙さを思い知らされたと同時に
それからの私の考えの指針を、この本から学び取ることができました。


読書をするとはいったいどのようなことでしょうか。
苅谷剛彦(東大教授)は、著書『知的複眼思考法』の中で、
知識を得る際、電子メディアにはなく、
活字メディアでしか味わうことのできないこととして、
考えながら相手の主張を吸収できることがある、としています。
確かに、電子メディアからは
一つのトピックで相手の主張がシャワーのように浴びせられ、
また自動的に次のトピックへ移動させられてしまう。*2
しかし、本のような活字メディアでは、
行間や文章構成などから
相手の主張の根底にあるものは何なのか、
といったことに関してより深く理解し、
また場合によっては批判的に読み進めることも可能とするのです。

苅谷が前掲書で提唱するのは、
まさにタイトルのとおり「知的複眼的」に物事を考えることです。

私たちは、具体的な事例をここで出すと、
欠陥マンション事件に関してみると、
姉歯設計士、悪いやっちゃな」とか
ヒューザーのおっちゃん、どう考えても悪いやつの顔しとるやん」
と思いがちです。
あるいは、先日の我が校の学生が犯した幼女殺人事件では、
「前科あるのによう塾講できてたな」とか
「こんなやつが身の回りにいると思うとぞっとするわ」とか
「窃盗もして幼女も殺人して頭おかしいんと違うか」とか
他にもいろいろ考えられますが、
こういった意見が出てくることでしょう。
事実、私の周りでもよく聞きます。

しかし、そう思うあなた、よく考えてみてください。
あなたはどれだけ、
建築業界について知っているんですか?
荻野容疑者の身にたって物事を考えましたか?
例えば今日の証人喚問でも
姉歯設計士は、真実かどうかは知りませんが、
さまざまな圧力があったと言っていました。
あるいは荻野容疑者の件でも、
彼は正社員へ希望していたことから
生徒からの評価にシビアになっていた、と言います。
物事の背景には必ず多様性があります。
一面的に物事が起きているわけではありません。
被害者の立場もあれば、加害者の事情もある、
社会的事情もあれば、心理的事情もある、
政策的事情もあれば、現実的事情もある、
決して一面的ではないのです。
あなたの考えを振り返ってみたとき、
それはどこか単眼的な、ステレオタイプな面はありませんか?

苅谷のいう「知的複眼思考法」とは、
このような、ステレオタイプな考え方に縛られずに
主体的に物事を考えていくことなのです。
そして、読書とは、
そのスキルを身につけていくツールとして
最適なものであるといえるのです。


ステレオタイプに知らず知らずのうちに陥り、
どこか閉塞感漂う中で、それを打開していくには、
物事の本質とは何か、背景とは何か、といったことに関して
追求していくことが求められることでしょう。
すなわち、私たちに今求められている力とは、
まさにこの「知的複眼思考法」なのです。
将来を見据え、今をひたすらに生きるのであれば
その一助となるであろう、読書というものの重要性について
私たちは改めて再認識してみる必要があるのではないでしょうか。