「日常」と「非日常」の間の葛藤

昨日、一昨日と、
突然に漠然としたことを書き記したのは
当然、意味があるからです。

表現が抽象的になっているのは、
例えば「今日は○○ちゃんとこんなことをした」とか書いても
あらゆる人が見るこの場には
その表現がふさわしい人もいるかもしれないけれども、
逆に、関心のない人にとってはまったくふさわしくないものになってしまう、
つまり、あらゆる人が「読める」内容とするには
現実にあった事実をやや抽象的な話に置き換えて
表現するしかないからです。
ただ、今回の要因はそこではありません。

実は、先日、ある人が交通事故で亡くなりました。
その人は別に友達でも親族でもなんでもなくて、
知り合いといえるかどうか際どいくらいの存在でした。
しかし、事故死であったためか、
その前日までまったく「日常」的に彼は存在していた、
それなのに、その翌日になると存在しない。
さらに言えば、
これまでのオンライン上の付き合いという「日常」について、
あるいはサイト管理者とは何か、どうあるべきかという
「日常」に関して、私が鈍感だった、
今思えば、その問い直しが必要でった故、
僕にはどうしてもその事実が
「日常」に起きたものとして受け止められないのです。

しかし、彼の死にこのように直面したものの、
私はそこからどうこの事実に向き合えばいいかわからない。
これらの問題は、今の私にはどうしても重すぎるというか、
どうしても「日常」への問いかけにしては極端で、
むしろ「非日常」的な問いかけにも思えてしまうのです。
これは、あまりにも重過ぎる問いかけに対する
対峙方法はどうあるべきか、という
「まだ見ぬ壁」との直面であると思います。

仮に、私は今、彼とのこれまでの関係について後悔し、
彼を偲んだとしても、それはそれでかまわないと思います。
しかし、私はそういうことはどうしても避けたい。
今まで非難し続けた相手に対し、
死という事実をきっかけに突然、
彼の生き様を美化したもの、
すなわち「非日常」的なものとして考える。
けれども時間が経てばケロッとそんなことは忘れ、
何気なく生きていく、
そんなことはどうしても私にはできないのです。

私が成長していくにあたって求められているのは、
常に「日常」の意味を問い直していること、
そして、「まだ見ぬ壁」と向き合う姿勢でいること、
この2点だと思います。
今回の彼の死も、よく考えてみれば、
彼の事故死の現場の話を聞いてしまうと
危険運転の車・バイクに対して恐怖を感じたりします。
冷静に考えれば、
もう一度、自分の「日常」である、
自転車の運転の仕方、横断歩道の歩き方などについて、
総点検する必要があるともいえるでしょう。
まるで彼の「遺志」を継ぐかのようですが、
私自身が成長していくにあたって、
彼の死を「日常」の出来事として捉えその意味を問い直し、
そしてそれを「まだ見ぬ壁」として向き合っていく、
そんなこともやろうと思えばできると思います。

しかし、そのためにも、
まずは、私は彼の死に対して
「非日常」的なイメージから脱却して、
現実性を見出さなければならない。
だとするならば、私はどうすればいいのでしょうか。
このように考えていく限り、
いつまで経っても方針への糸口が見えません。
その中にあっても今、私にある選択肢は、
? 彼の死を「日常」として捉え現実視するきっかけをどこかで掴む。
? 彼の死を「非日常」的なものであると認識し、もはや彼の死はなかったものであると現実逃避する。
この2つのみかと思います。
私は今、このどちらの選択肢を歩むべきか憂慮していると同時に、
もっと言えば、彼の死という現実を捉える上で
私自身を、「日常」に置くか「非日常」に置くか、
葛藤しているのです。

きっと、この文章をお読みになっても
はっきりと私が言わんとしていることが
お分かりにならないと思います。
それは当然で、今、自分でこの文章を読み返しても、
結局自分はどう考えているのかはっきりしないのですから。
今、一昨日の彼の通夜の香典返しのクッキーの箱をあけ、
中身をたいらげても、このクッキーが
本当に香典返しなのか、市販なのか、結局わからない。
こうやってクッキーを食べることで、改めて、
私は「日常」と「非日常」の間の葛藤という
重い、むしろ重すぎる「まだ見ぬ壁」に直面し、
その前でうろたえていることに気づいたのです。